また、また・・・悲しみよコンニチは・・・悲別・・・

 3011日目・文字霊日記
 猿田弖(氐)意名蛙・エンターテイナー(entertainer)

 ↓↑
 エンターテイナー(entertainer)
 猿 田 弖(氐)意名蛙・・・?
 ・・・猿女・・・宇受女・・・
 シルヴァーナ・マンガーノ
(Silvana   Mangano)
 1930年4月21日?
 ~
 1989年12月16日
      大運1985年7月(55歳)甲戌 正財
 庚午(丙 丁)劫財・偏官 病⇔己巳 偏印
 庚辰(乙癸戊)劫財・印綬 墓⇔丙子 正官
   (偏財・食神・印綬
 辛丑(癸辛己)  ・偏印 養⇔庚戌 劫財
 甲午(丙 丁)正財・偏印 病⇔壬午 傷官
  辰巳空亡
  危宿/辛丑         翼宿/庚戌
 1930年4月20日
     大運 1985年3月(54歳)甲戌 偏財
 庚 午(丙 丁)比肩・印綬沐浴⇔己巳 印綬
 庚┏辰(乙癸戊)比肩・偏印 養⇔丙子 偏官
  三合壬・食神(正財・傷官・偏印)
 庚┏子(壬 癸)  ・傷官 死⇔庚戌 比肩
 庚┗辰(乙癸戊)比肩・偏印 養⇔壬午 食神
   辰巳空亡
   虚宿/庚子         翼宿/庚戌

 壬┗午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔壬午 食神
ーーーーー

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 ・・・???・・・
 悲しみよコンニチは
 (Bonjour Tristesse)
 2016-08-24 00:37:36
  ↓↑
 乚(乙)=「乚」は「隠」の古字
      かくす
      人の目に触れないようにする
      物で覆ったり、しまいこんだりする
      物事を人に知れないようにする
      秘密にする
      死者を土に埋める
      かくれる
      表面・外部から見えないところに存在
      世間に名前や力が知られないでいる
      去る・いなくなる
      ひそむ・ひそかに
      かすか
      いたむ=心配する=(同意語)=慇
      悲しむ
      落ち着いている
      盛ん=殷
      拠(よ)る
        ↓↑
      ある物事の根拠
      基準・理由となる
      甲乙の「乙」・・・偶数の始り「二=次」
      甲乙の「甲」・・・奇数の始り「一=初」
      甲音・・・甲高い音声
      乙音・・・押さえてつかえさせ止める
           書物を読んで口調をとめるしるし
           吃音(どもり・キツオン)

 「子羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」
 ・・・中国では淡水の「河豚(ふぐ)=河+豚」は
    ブタ(豚)に似た鳴き声をするらしいからの名前らしい・・・
 そして「鮐・鰒・鯸・魨・鯺」の異字漢字も「フグ」らしい・・・
 「鮐=フグ(fugu)フグ科の魚類の総称
    ふぐ(河豚)
    およそ120種の魚がフグ科に分類」・・・
 「ナゴヤフグ(名古屋フグ)」
  との呼称もある
 「毒に当たればミノオワリ(美濃尾張)」の洒落
 「毒」は
 「主(亠+十+一)」
  の
 「毋(ない・ブ・ム)
  or
  母(はは・ボ)
  or
  毌(つらぬく・カン・ガン・貫)」
  である・・・
  ↓↑
 「毌丘倹(カンキュウケン)」
  ?~255年
    ↓↑
    干支       乙亥年
    ↓↑       ↓↑
     亥=骨組みが引き締まっている
       骸骨・・・
      「胡亥(姓は嬴(エイ)
       始皇帝の末子・秦朝第二代皇帝)」
       戦いの時の
      「該=言+亥」は
       兵士に誓いを言う決意表明
    ↓↑       ↓ ↑
          ・・・乙の該・・・?
        該=かねる・そなわる
          かねそなえる
          あまねく・ことごとく
          該究・該洽(ガイコウ)・該博
          あたる・あてはまる
          該当
          その・指定する言葉
          該案・該日・該地
          当該(トウガイ)
          博該(ハクガイ)
          ある場面で
          問題になっている
          当面の物事をさしていう
          その・この・当の・当該
          該(かねる)る
          該(そなわる)わる
          該(その)の
         「該事件の報告書」
         「該資料」
    ↓↑       ↓↑
    神功皇后 摂政  055年
         皇紀  915年
    中国
    魏    正元  002年
    蜀    延熙  018年
    呉    五鳳  002年
    朝鮮
    高句麗  中川王 008年
    新羅   沾解王 009年
    百済   古尓王 022年
         檀紀  2588年
  ↓↑     ↓↑
 「毌丘倹(カンキュウケン)」
  字は
 「仲恭」
  并州
  河東郡
  聞喜県
  出身
  尚書
  洛陽の典農
  魏の
  荊州刺史
  幽州刺史
  魏の将軍
  最後は
  司馬師
  に反乱後、討伐された
  ↓↑
  魏の官僚
  毌丘興
  の子
  毌丘甸
  毌丘宗
  の父
  毌丘秀
  の兄
  孫は
  毌丘重
  毌丘奥
  孫娘は
  毌丘芝
  ↓↑
  毌丘倹
  ↓↑
 237年
 「孫権
 は
 高句麗
 と通じ、
 遼東へ親征を行おうとした
 魏は
 「毌丘倹」
 を派遣しこれと対陣
 「毌丘倹」
 が
 「鮮卑
 の軍を動かして
 遼東に駐屯させたので
 「孫権
 は遠征を断念
  ↓↑
 魏は
 「公孫淵
 に対し上洛を命じたが
 「公孫淵
 はこれを拒否、挙兵して
 遼隧で
 「毌丘倹」
 を撃退
  ↓↑
 遼東の
 「公孫淵」が
 呉と接触
  ↓↑
 「毌丘倹」は
 魏王
 「曹叡
 の命により
 幽州刺史となり
 「烏丸」
 の単于
 「寇婁敦」・・・「倭寇元寇」?
 と
 「袁尚」・・・・「袁の尚」
 「烏丸」
 へと逃げた者
 5000余を降伏させた
  ↓↑
 遼隧の戦い(238年)
 魏王
 「曹叡」は
 「司馬懿
 に4万余の兵を与え、
 「公孫淵」征伐
  ↓↑
 「238年・・・遼隧の戦い」と「卑弥呼
  ↓↑
ーーーーー
 倭に関係する極東国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、
      後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、
      「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、遼東郡を遼西、
      中遼の二郡とし自らの太守を設置
      また、
      山東半島
      「営州刺史」を置き
      「遼東侯・平州牧」
      と号した「公孫度」の子
      「公孫康
      が継ぎ
      「度」の弟
      「恭」が
      「永寧郷侯」
      となり
      「康」
      は西暦196~220年まで
      「楽浪郡」を分けて
      「帯方郡」を置いた
 220年 後漢滅亡
      魏王
      「曹丕
      が
      「献帝」を廃し
      魏の
      「文帝」
      となる
 221年 「劉備
      燭漢の
      「昭烈帝」となる
 229年 「孫権
      呉の
      「大帝」となる
      「公孫康」の子
      「淵」が
      「魏王」から
      「遼東太守」、
      「車騎将軍」
      の爵号を授
 232年 呉の
     「孫権」、
     「淵」に
     「燕王」
     の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣
     「淵」
     はこの使者を殺し
     その首を「魏」に差しだし
     「楽浪公」
     の爵位を得る
 235年 高句麗
     「位宮」
      呉から
     「単于」の爵号を受く
 237年 「魏」は
      幽州刺史の
     「毋丘倹」
     を将軍にし
     「淵」軍と戦い敗北
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 238年 六月、「卑弥呼」、
         大夫
         「難升米」を
         「魏」におくる
 ・    ↓
 ・    八月、「魏」の
         「司馬懿」を
          将軍とする軍隊に
         「淵」軍敗北、戦死
  ↓↑  ↓↑  ↓↑
 239年 帯方郡・太守
     「弓遵(辷+尊)」が
     「韓」族に攻められ戦死
     「韓」滅亡
 244年 「魏」は
      幽州刺史の
      「毋丘倹」
      を将軍にし
      高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守
      「王・頎(斤+頁)」
         頎=キ・ゲ・キン・コン
           斤+頁
           ザン・セン・サン・きる
           斬=車丿𠂆一𠂋T斤=斬
           罪人を切り殺す
           裂(さ)き殺す
           刃物で切る
           裂く・断(た)つ
           断ち切る・絶(た)える
           同「絶」
  ↓↑  ↓↑
     「王頎」
      玄菟郡の太守(245年)
      丸都から逃走した高句麗王の
     「位宮」を
     「毋丘倹」
      に命ぜられ追撃
      沃沮を通り
      粛慎氏の南端までたどり着き
      石碑を建てた
      道中で老人の話を聞いた
     「東の海の彼方の島に流れ着くと
      言葉が通じない、
      七月に
      童女を海に沈める習慣の国があった
      他に女ばかりで男のいない国もある」
      248年
      帯方郡の太守
     「卑弥呼」は
      狗奴国の王
     「卑弥弓呼(素)」
      と戦争中であると
      帯方郡に使者を遣わし報告
     「王頎」は
     「塞曹掾史」
     「張政」を
      黄幡、檄文を持たせ派遣
  ↓↑  ↓↑
 「王頎」
 天水太守
 263年
 「鄧艾」
 に命ぜられ
 「姜維
 の本陣に進軍
 「姜維
 は撤退し
 魏軍は追撃して
 「姜」を破った
 (魏書・毋丘倹伝・東夷伝、鄧艾伝)
 鄧=登+阝
   異体字「邓」
 「演義」では
 「鄧艾」に命ぜられ
 一万五千の兵を率いて諸軍と協力し
 「姜維」を漢中から撤退さた
 沓中では
 「姜維」と自ら刃を交えるが
 負けて引き下がった
 蜀が平定されると
 「鄧艾」に益州
  長官に任命された
  ↓↑   ↓↑
      塞曹掾史
      「張政」を「倭国」に派遣
  ↓↑   ↓↑   ↓↑
 この「年表」に記されている
 「人名」と「官名」、「地名」
 の漢字とその「音」に注意すれば
 「古事記
 が何を示唆しているか明かである・・・?
 更に
 「238年」の
 「六月」から「八月」・・・
 ワズカ、
 「二カ月間」・・・
 「卑弥呼」の「倭」は
 少なくても
 「六月」までは
 「もと『燕=公孫氏』に属」
 さざるを得なかったハズである・・・?
 何故なら
 「公孫淵=燕」は
 「237年」には
 「呉」と同盟
 あるいは册封関係にあり
 敵対する
 「魏」の
 「幽州刺史」の
 「毋丘倹」
 を将軍とする軍隊と戦い
 コレを撃破して勝利
 翌年
 「238年の八月」に
 「魏」の
 「司馬懿
 を将軍とする軍隊に敗北し
 戦死した
 時間的な流れでいえば、
 「倭」は
 「238年六月~八月」までは
 「呉」と深い関係にあった
 「公孫淵=燕」に
 「属」していたハズだ・・・
 もちろん、状況的に
 直接的にも
 「倭」は
 「呉」と深い関係にあった・・・?
 すると、
 「238年『六月』」、
 この『六月』に
 「卑弥呼」が
 大夫
 「難升米」を「魏」におくる
 と云うことはどういうことなのであるか
 記録上の齟齬がナイとしたならば
 朝鮮半島遼東半島
 いまだこの年の
 『八月』まで
 「公孫淵=燕」の支配下にあった・・・
 この「未だ燕の支配下の『六月』」
 どのような経路でいけたのか?・・・
 どのような目論見で
 「難升米」を
 「魏」におくったのか?・・・
 方法は色々考えられるとしても・・・
 戦局が未だ定まらぬ
 「敵地=燕地」の経路をである
 「卑弥呼」は
 「邪馬台国」をまもるため
 「呉=燕」の配下にありながらも
 二股をかけざるを得なかった・・・
 あるいは
 「公孫淵=燕王」の
 「対魏戦略」に
 「卑弥呼」は乗せられた・・・
 あるいは
 「燕=公孫氏」
 「呉=孫氏」そのものと
 「縁籍」であった・・・
 そして、
 『八月』
 「公孫淵=燕」
 は
 「魏」の
 「司馬懿
 を将軍とする軍隊に敗北、戦死した(?)・・・
 『十二月』
 「卑弥呼」は
 「魏王=明帝」
 から詔と「親魏倭王」としての
 「金印紫綬」と「銅鏡百枚」等をもらった・・・
  ↓↑  ↓↑    ↓↑
 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と「狗奴国」の交戦
            卑弥呼の死亡
            「邪馬台国で男王」立つが
            「内乱」
            「宗女・壹與=壱與」が
           「十三才で女王」
            となる
  ↓↑   ↓↑   ↓↑
 238年から六年後
 244年
 「高句麗王=位宮」も敗北
 朝鮮半島での敗残者は何処に逃げていったのか?
 ・・・当然、「倭」へ、である・・・
 滅亡した隋(581年~618年)の亡命も「倭」へだろう・・・
    「隨・隋・随」・・・ズイズイず転ばし、ゴマみそズイ・・・
              帰化人は陽侯 麻呂(やこ の まろ)
              姓は史・官職は大隅国
              陽侯氏(陽侯史のち陽侯忌寸)
              隋の煬帝の子孫
              達率 楊候 阿子王
              の末裔を称した
              陽侯 人麻呂(やこ の ひとまろ)
              姓は史(毘登)のち忌寸
              但馬守・陽侯真身の子
              官位は外従五位下
              宝亀十一年(780年)三月
              吉田古麻呂の後任の豊前
              同時に
              小野滋野が豊前守に任じられた
              兄弟 令珍・令珪・令璆
              小野 滋野(おの の しげの)
              左京大夫・小野竹良の子
              ↓↑
 そして「卑弥呼」の「邪馬台国」は
 「魏」の
 「張政」に担ぎ上げられた
 「壱与」に権力交替した・・・
 「狗奴国との対立」
  や
 「卑弥呼死後の男王の擁立」は怪しい・・・
 すなわち、この部分に於いても
 「陳寿」は
 「使訳」の報告すべてが
 正しいわけがあるまい、と言っている
 「司馬懿(シバイ)」の名前も示唆的で
 同音異字なら「芝居」で
 しかも「芝居(しばい)」は
 日本語であるから・・・。
 この『六月』の「卑弥呼」に対する
 「魏」の答えは・・・
 「卑弥呼」の排除・・・
 243年
 「宗主国」である
 「魏の帯方郡太守」が
 「倭へ使者」を派遣してきた
 その後の
 「壱与」・・・壱=いち=壹・位地・位置・一
          いつ=乙・伊都・何時・一
          いつ=逸・伊津・伍・伊豆?
          乙=乚
 の権力交替は
 「帯方郡使」としての
  ・・・帯=垂らし=多羅氏・多良氏=誑し
       たらし⇔足る=充分
           樽=木尊=十+八+丷+酉+寸
           弛=弓也・・・たるむ・・・弦・絃
                  弛緩(シカン)
                  緩慢(カンマン)
           罇=午凵尊・・・馬韓の見事
           墫=十一尊・・・壱拾壹の見事
        α+尊=竴嶟擲・噂・撙・僔・鐏・蹲=ソン⇔孫
             投擲(トウテキ)⇔当的
 「張政=魏」の策謀(告喩)による
 「淵=燕=呉」親派の
 「卑弥呼」の
 「縊殺・絞殺」
 あるいは
 「溺殺」によるものである・・・
 漢字の
 「乙・乚」の秘密である・・・
  ↓↑
 「張政」と「壹與・壱与」の
 「告喩」としての
 「卑弥呼」に対する侵攻は
 朝鮮半島、博多「伊都」
 そして長崎県の「五島列島」を根拠地にし
 「長崎」、「諌早」
 「熊本・宇土・横島」
 へとその勢力を浸透させて
 「卑弥呼」を「殺害(?)」した・・・?
 その後
 「壱与」は「宇佐」に東遷し
 権力の基盤を
 「大分」に置いた
 だが
 「卑弥呼」の親派勢力は
 長崎「諌早」、「天草諸島
 「熊本・横島」・・・ム=横嶋=
 そして
 「沖縄」、「台湾」
 にその勢力を有していた・・・?
 結論的に
 九州(倭)は「魏」の配下に入ったが
 「二人の女王」の勢力は
 「遼東半島」、「山東半島
 「高句麗」、「朝鮮半島」、「南韓
 の亡命者、血縁者を抱え
 「太陽の烏=卑弥呼
      =長崎・諌早=左目=天照大御神
 と
 「月の卯=壱与=大分・宇佐
        =右目=宇受女=豊受大神
 に分裂=磐余(イワレ)=「大分」
 していた・・・
 もちろん
 「中央の鼻=中津=名賀津=那賀津」
 は
 「博多・伊都=須佐之男
 である・・・ハズだ・・・が?
 その後、
ーーーーー
  ↓↑
 公孫淵
 卑衍・・・卑の衍?
      衍=あまる・エン
        余分にあまる
        余計な
        衍字・衍文
        延び広がる
        押し広げる
        衍義=敷衍
 楊祚
 らに数万の軍を与えて
 遼隧に派遣・・・・・遼の隧?
 司馬懿
 遼東に到着
 卑衍が
 司馬懿を攻撃したが、
 司馬懿
 胡遵らを派遣して・・・胡の遵(辶+尊)
 卑衍を破った
  ↓↑
 公孫淵
 遼隧に塹壕を掘り、
 司馬懿の軍を迎え撃った
 遼隧の公孫淵の防衛陣が堅固だったので
 司馬懿は、
 東南に退却したとみせかけ、・・・東南=辰巳=巽
 国都の
 襄平に侵攻
 公孫淵は遼隧の軍を撤退
 都の守備に当たらせたが、
 敗退を繰り返し
 司馬懿に襄平を包囲された
  ↓↑
 公孫淵
 呉の
 孫権に謝罪し、援軍を求め
 孫権は援軍として
 羊衜・・・羊の衜=彳+首+亍=みち・ドウ・トウ
               道
 鄭冑・・・鄭の冑=かぶと・介冑・甲冑
         「胄(あとつぎ)」
          は別字・・・?
          何処が別の字なんだか?
          同字にしか見えないのは
          ドウジだから・・・
          兎に角
         「胄」は「世継ぎ」
 孫怡・・・孫の怡=忄(心)+台(臺)
 を派遣
 が、すでに公孫淵は敗北、
 遼東で
 魏の
 張持・・・張の持
 らを破って、
 男女の
 捕虜を得たにとどまった・・・
  ↓↑
 長雨の時期で兵糧が欠乏
 公孫淵は人質を出して
 和睦・・・和の「睦」とはダレ?
 しようと画策するが、
 司馬懿はこれを拒否
 公孫淵を捕え、処刑
 遼東
 公孫氏は滅亡
  ↓↑
 司馬懿はこの地に
 魏への反抗勢力が出ぬよう
 15歳以上の男子を皆殺(genocide)
 ↓↑
 244年(甲子年)
 毌丘倹は
 呉との同盟していた
 高句麗討伐
 高句麗
 位宮・・・位の宮
 を攻め
 都を破壊
 位宮
 は逃亡
 高句麗を滅ぼせなかった
 高句麗
 東川王(憂位居)=位宮
 は
 公孫淵討伐には
 協力的であったが、
 242年以降
 再び魏と険悪な関係になった
 毌丘倹は高句麗への攻勢を強め、
 244年
 更に東へと進んで
 高句麗の軍勢を大破し、
 都の
 丸都・・・丸い都
 を蹂躙
 東川王(憂位居)に逃られ
 高句麗
 滅ぼすことはできなかった
 ↓↑ 
 司馬懿・・・「懿」が付く天皇
 が反乱し
 魏を支配し
 司馬懿の長男
 司馬師・・・馬師の司は「左右の馬の守」?
 が実権者となる
 ↓↑
 毌丘倹は
 胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰
 らと共に
 都督
 左将軍
 鎮南将軍
 豫州刺史・・・豫の州とは「伊豫」?
 となる
 ↓↑
 252年
 呉の
 孫権、死亡
 ↓↑
 討伐軍として
 呉に攻め込んだ
 魏の
 諸葛誕・・・諸の葛の誕
 が
 呉の
 驢馬の息子・・・驢=馬+盧
 諸葛恪・・・諸の葛の恪=忄+各=つつしむ
                 きまじめ
                 カク・キャク
 に大敗
 ↓↑
 毌丘倹は
 諸葛誕に代わって、
 揚州刺史の文欽と共に
 呉への備えとして
 鎮東将軍に転じ
 揚州に駐屯し
 驢馬の息子の
 諸葛恪が攻めてきた時
 文欽・司馬孚・張特
 と共にこれを防ぎ、
 撤退の
 諸葛恪を追撃
 ↓↑
 254年
 夏侯玄・・・夏の侯の玄
 が
 司馬師に反乱し失敗
 司馬師
 曹芳を帝位から降ろし
 曹髦を帝位につける
 ↓↑
 夏侯玄と親しかった
 毌丘倹の立場もあやうくなり、
 息子の
 毌丘甸と
 かって、
 司馬師に処刑された
 曹爽の寵臣だった
 文欽と共に・・・文は「欽」・・・欽明天皇
 彗星が
 西北の空を・・・北西=乾=戌亥・・・狗意
 覆ったのは瑞祥
   ・・・瑞・・瑞皐(ズイコウ)=高野長英
         玄瑞(ゲンズイ)=久坂玄瑞
 だとし
 司馬師を弾劾する
 皇太后詔勅を偽造し、反乱
 毌丘倹は、
 寿春を老人や子供に守らせて
 項城に入り、
 毌丘倹は城内
 文欽は城外に駐屯
 ↓↑
 先鋒の
 王基が
 攻撃を避け
 毌丘倹は
 諸葛誕や胡遵が
 寿春を攻撃される状況で
 退却も出来ずに兵は逃亡・・・
 ↓↑
 城外の
 文欽は
 訒艾・・・訒の艾=よもぎ
 に夜襲を仕掛けたが
 敗れて
 呉へと逃亡
 毌丘倹は逃亡しようとしたが
 張属・・・張の属
 に射殺され、
 首は
 魏都にて晒された
 ↓↑
 毌丘甸は、
 父の反乱に際に
 魏都に残ってい
 山に篭ったが討伐軍に敗れて捕らえられ、
 一族もろとも処刑された
 荀一族の女であった
 毌丘倹の妻は
 荀邈らの嘆願によって許され、
 孫の
 毌丘重
 毌丘奥
 は、
 晋の時代に出仕
 ↓↑
ーーーーー
 『三国志
 倭国で男王(70~80年間)
 後に内乱(5~6年間)
 後、卑弥呼の即位
 鬼道に仕え、よく衆を惑わす
 年齢は既に高齢で夫はない
 弟がいて国の統治を補佐
 ↓↑
 景初二年(238年)12月
 卑弥呼
 難升米らを魏に派遣
 魏から
 親魏倭王の仮の金印
 銅鏡100枚を与えられた
 ↓↑
 正始元年(240年)
 帯方郡から
 魏の使者が倭国を訪れ
 詔書印綬を奉じ
 倭王に拝受
 ↓↑
 正始四年(243年)12月
 倭王
 大夫の
 伊聲耆
 掖邪狗
 ら八人を復遣使として
 魏に派遣
 掖邪狗
 らは
 率善中郎将の印綬を受けた
 ↓↑
 正始六年(245年)
 難升米に黄幢を授与
 ↓↑
 正始八年(247年)
 倭は
 載斯
 烏越
 らを
 帯方郡に派遣
 狗奴国との戦いを報告
 魏は
 張政
 を倭に派遣
 難升米
 に詔書、黄幢を授与
 ↓↑
 卑弥呼 死亡
 墓造作
 男王が立つが
 国が混乱
 互いに誅殺しあい千人余が死亡
 卑弥呼
 宗女「壹與」を13歳で王に立て
 国が鎮定
 倭の女王
 壹與は
 掖邪狗
 ら20人に
 張政
 の帰還を送らせ
 掖邪狗らは
 都に向かい
 男女の生口30人
 白珠5000孔
 青大句珠2枚
 異文の雑錦20匹を貢いだ
 『後漢書
 建武中元二年(57年)
 倭奴国が金印を授与される
 永初元年(107年)
 倭国王
 帥升
 が
 安帝に拝謁を願う
 ↓↑
 桓帝霊帝の間(146年~189年)
 倭国大乱
 ↓↑
 ???・・・西暦247年3月24日
       皆既日食夕方
       朝鮮半島南部から
       中国大陸へ向かって観測
       日本列島で観測された地点は無い
       壬卯
       癸卯
       庚午
       壬午
 ↓↑
 ・・・・・・西暦248年9月5日早朝
       観測地域
       北関東
       ~
       北陸・能登半島に掛けて観測
       戊辰
       庚申
       辛酉
       辛卯
 ↓↑
 正始中(240~248)卑弥呼 死亡
       卑彌呼以死
       大作冢、徑百餘歩
       殉葬者 奴婢百餘人
 ↓↑
 522年
 継体天皇
  522 年 6 月10日の日食

 干支     壬寅
 継体天皇   十六年
 中国
 梁     普通三年
 北魏    正光三年
 ↓↑
 越前の大王・継体天皇
 近畿を征服
 磐井の乱
 司馬達等が来朝
 文帝、南朝陳の第2代皇帝誕生
 ↓↑
 『三國志』(三国志)卷四
  魏書四 三少帝紀 第四
  正始四年
 「冬十二月 倭國女王 俾彌呼 遣使奉獻」
 十二月は菊の花・・・
 ↓↑
 「キクの名前」
  の
 「背負う説」資料です・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 『日本書紀』の巻第二十二
 「日有蝕尽之」
  戊┏子(壬 癸)比肩・偏財 胎
  丙┣辰(乙癸戊)偏印・正官冠帯
  戊┗申(戊壬庚)  ・偏財 病
  壬┗子(壬 癸)偏財・正財帝旺
  ↓↑
 628 年4月10 日「三月丁未朔、戊申日有蝕尽之」
        (三月の丁未の朔、戊申日、蝕え尽きたること有り)
        都の飛鳥京で皆既食が見られた
        実際は日本のすぐ南東沖を通過した皆既食で
        飛鳥京では食分0.93程度の部分食
        推古天皇は5日後の4月15日
       (推古天皇三十六年三月七日)
        死去
 ・・・6+2+8+4+1+0=21・・・2+1=3
             念初   参=參
                  㕘叅叄
                  參=厽+㐱
                    厶+厸+人+彡
    6 2 8 4 1 0
    六拾弐萬八千四百壱拾
    陸拾貳萬捌阡肆陌壹足
          肆=シ=乨=台+乚=始=女+台
              臺+乙=はじめる
 ・・・???・・・
 「阝坴扌合二貝弋艹禺扌別阝千镸聿阝百一足」
 乨=始
 the beginning; to start, to begin, to be the first
 玉篇・古文 始字。註詳女部五畫。
 女之初也。从女台聲。詩止切〖注〗
 乨=兘・・・始=女 +台=女+臺
 古文。
 『說文解字注』
 (始)女之初也。釋詁曰。初、始也。
 此與爲互訓。初、裁皆衣之始也。
 基者、牆之始也。
 凡言之者皆分別之䛐。有叚殆爲始者。
 七月毛傳云殆始也是也。从女。
 台聲。詩止切。
 一部。按凡始事有急緩之殊。不得云有二義。
 今人乃爲之二音。緩者讀去聲。
 月令紀節物用始字十餘。
 而蟬始鳴獨市志反。
 其亦庸人自擾也矣。
ーーーーー
 ・・・???・・・
 コジキ姫「壱与」・・・「壹與」
 カンジて赤い絨毯にのり
 空をカケメグル
  「古事記・字源」物語
http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm