冬のトンボ(蜻蛉・蜻蜓・とんぼ・dragonfly, damselfly)・・・

 3012日目・文字霊日記
 ヤゴとトンボ・・・秋津洲・・・遣唐使・・・遣隋使・・・
 検討すること・・・秋津洲・・・遣唐使・・・遣隋使・・・
 またか・・・ボケだから・・・同じことヤッテいる・・・ムシムシむし・・・

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 ヤゴ(水蠆)はトンボ目(蜻蛉目)の
 不均翅亜目
 の
 幼虫
  ↓↑
  蠆=萬+虫
   艹+禺+虫
   異体字「䘍=萬+[m:318]・虿=万+虫」
   蟲・虫
   タイ
   さそり(蠍・[m:110])
   さそり・尾の先端に毒針を持つ
   刺す・毒虫が刺す
  「水蠆(スイタイ)」=蜻蛉(とんぼ)の幼虫
   ヤゴ

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 トンボ(蜻蛉・蜻蜓・とんぼ・dragonfly, damselfly)
 細長い翅と腹を持った昆虫
 蜻蛉目(トンボ目・Odonata)
 南米産の
 ハビロイトトンボ
 巣を張っているクモに体当たりし
 落ちてきたクモを捕食・・・?
      ・・・女郎蜘蛛vs蜻蛉
          絡新婦(ジョロウぐも)・・・???
          カラメとるシンプ
          絡=糸+各=からむ
          新=立+木+斤
          婦=女+帚
            女 彐 冖 巾
            菷・掃・箒
           (ほうき・はく)
            法規・放棄・蜂起・宝亀伯耆?・白?
          イトにカラみ、タチキのキンのジョのハク?
          クモ(蜘蛛・spider)
          節足動物
          鋏角亜門
          クモガタ綱
          クモ目(Araneae)
          歸=丿+㠯+止+帚
            丿+㠯+止+彐+冖+巾
            帰=皈=白+反・㱕=止+帚
            歸(かえす)す
            歸(かえる)る
            歸(おくる)る
            歸(とつぐ)ぐ
            思帰・思歸(シキ)故郷に帰りたい望郷・郷愁
            思帰鳥・思歸鳥(ほととぎす)・不如帰・霍公鳥
            子規・田鵑・杜宇・蜀魂・時鳥・沓手鳥
           (杜鵑・Cuculus poliocephalus
            =カッコウ目・カッコウ
             郭公
            「うぐいす=鶯=鴬」に「托卵」する・・・ナゼ?
            大陸、半島渡来人?・・・遣隋、遣唐使の留学生?
            望郷は「渡り鳥」だが、故郷、故国とは「出生地」
            ノスタルジア(nostalgia)
            ノスタルジー(nostalgie)
         濅=氵+宀+帚+又=浸・・・侵入・侵略・侵攻
           氵+宀+彐+冖+巾+又
           濅す(ひたす)
           濅る(ひたる)
           濅みる(しみる)
           濅かる(つかる)
           濅く(つく)

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 寒冷地ではふつう幼虫で越冬するが
 オツネントンボの仲間は成虫で越冬・・・
 「秋津の臀呫(となめ)の如し」・・・神武天皇
 (トンボの交尾のようだ)と述べた・・・
 ↓↑
 み吉野の 袁牟漏が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ 大前に奏(まを)す
 やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 呉座にいまし
 白栲(しろたへ)の 衣手着そなふ 手腓(たこむら)に 虻かきつき
 その虻を 蜻蛉早咋ひ かくの如 名に負はむと
 そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ・・・雄略天皇

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 虫(蟲・むし)
 人類・獣類・鳥類・魚類以外の
 小動物の総称
 蠕形動物のこと・回虫
 回虫原因の腹痛
 潜在する意識
 ↓↑
 虫=中+ム
   ヘビの象形文字
   它・蛇・蝮
   キ
  「蟲」とは異なる概念
  「蟲」=人間を含めてすべての生物
      本来「チュウ」と読む文字
 ↓↑     ↓↑
      「羽蟲=鳥」
      「毛蟲=獣」
      「鱗蟲=魚および爬虫類」
      「介蟲=亀(かめ)、甲殻類、貝類」
      「裸蟲=ヒト(人)」
      「蟲」の略字=「虫」
  ↓↑
 「竜(龍)」
 「蛟(ミズチ・水中の竜
  蛟竜(こうりゅう)
  水霊(みずち)」
 「蜃(シン・水中の竜」
 「蜃気楼」=「蜃」の吐く息の昇華現象
 「虹(コウ・にじ・天に舞う竜の化身」
 「虹蛇(こうだ、にじへび)」
 ↓↑
 まむし=眞虫=蝮=磨虫・魔虫
 「三尸(サンシ)の虫」
 ↓↑
 虫の知らせ
 腹の虫
 虫の居所が悪い
 虫がいい
 虫が好かない
 獅子身中の虫
 ↓↑
 蠕虫・蛞蝓・田螺・でんでん虫=蝸牛
 長虫=へび
 ↓↑
 扁形動物門のウズムシ
 紐形動物門のヒモムシ
 星口動物門のホシムシ
 軟体動物のフナクイムシ
 虫=チュウ・むし
 ↓↑
 線形動物
 センチュウ、カイチュウ、ギョウチュウ
 中生動物
 ニハイチュウ
 単細胞生物・原生動物
 ゾウリムシ・ラッパムシ
 節足動物の多足亜門、六脚亜門、鋏角亜門
 の蛛形綱、甲殻類のワラジムシ亜目
 ↓↑
 虫の息
 悪い虫が付く
 虫酸が走る
 虫も殺さぬ顔
 飛んで火に入る夏の虫
 蓼食う虫も好きずき
 一寸の虫にも五分の魂
 苦虫を噛み潰したよう
 虫の居どころが悪い
 弱虫
 泣き虫
 点取り虫
 ~の虫
 蟹・蛬・蛍・蠱・螯・蚕・蚩・蝨・蠢
 蜀・蝕・蜃・螫・蚤・蠆・蛋・蜑・蟄
 虫・蟲・蠹・蟇・蛮・蜚・蜜・融・蠡
 ↓↑
 蠡=彖+䖵
   彑+豕+虫+虫
   レイ・ラ・リ
   ひさご・にな・ほらがい
   ヒョウタンを割って作った器
   蠡測
   巻貝の一種
   蠡(にな)
   蠡(ひさご)
   蠡測(レイソク)
 ↓↑
 宝亀八年(777年)六月
 第14次遣唐使の判官
 第三船で渡唐
 七月
 持節副使(大使代行)
 小野石根が乗る第一船と共に
 揚州海陵県(江蘇省泰州市)に漂着
 八月末
 揚州大都督に到着
 「安禄山の乱」の影響で駅舎が荒廃
 観察使兼長吏
 陳少遊との取り決めにより
 長安への入京者が60人(65人)に制限
 十月に85人で揚州を発ち
 百余里進んだところで
 中書門下の勅牒により
 人数を20人に制限され
 遣唐使側の依頼により
 23人を追加して計43人が入京
 宝亀九年(778年)正月
 持節副使・小野石根
 副使  ・大神末足
 らと共に長安に入城
 宣政殿で拝謁の儀が行われるが皇帝は出御せず
 三月
 延英殿で皇帝
 代宗に対面し、官や賞を授けられた
 四月
 中使・趙宝英と共に使節一行は
 長安を去り
 六月に揚州に到着
 九月
 滋野の第三船は
 唐使を乗せて
 揚州海陵県から出航
 三日目に逆風で座礁
 船の修理後
 十月半ばに出航
 1週間ほどで
 肥前国
 松浦郡橘浦(長崎県上五島町玉之浦町付近)
 に帰着
 十一月
 第一船・第二船
 出航し
 第一船は遭難し
 判官・大伴継人ら41名のみが
 肥後国天草郡に漂着し
 第二船は薩摩国出水郡に帰着
 ↓↑
 宝亀十年(779年)四月
 副使
 大神末足
 大伴継人
 録事
 上毛野大川
 らの渡唐の功労に対する叙位
 滋野は従五位下に叙爵
 共に渡海した唐使の
 孫興進
 秦怤期
 が入京
 五月
 光仁天皇に拝謁
 宝亀十一年(780年)
 滋野は豊前守に任官

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 陽胡 玉陳(やこ の たまふる)
 名は「王陳」とも記録
 姓は史
 陽胡(陽侯)氏の祖・・・要注=幼虫
    ・・・煬帝=楊広
          別名は「英」・・・英国
          小字は「阿麼」・・阿毎・阿部
 ・・・并
 幵=ケン・たいら・そろえる
   さお(干)を平にそろえた形
 姸=女+幵・女+开(磨く)
  =姸・妍(磨かれた美しい女性
     妍しい・うつくしい)
 研=研究(穴+ノ+乙)・研磨・麿・厲=みがく・砥ぐ・とぐ
ーーーーー
 全ての
 参考文献(by ウィキペディアWikipedia))
 ↓↑
 隋皇帝
 在位期間
 604年8月21日 - 618年4月11日
 姓・諱 楊広
 諡号 明皇帝(楊侗より)
 煬皇帝(李淵より)
 閔皇帝(竇建徳より)
 廟号 世祖(楊侗より)
 生年 天和4年(569年)
 没年 大業14年3月11日
    (618年4月11日)
     宇文化及らに殺される
 父 文帝=楊堅の次子
 母 独孤皇后
 后妃 蕭皇后
 陵墓 雷塘
 年号 大業 : 605年~618年
 ↓↑
 王世充
 隋末唐初の群雄の一人
 鄭国 (テイコク) 皇帝 (在位 619~621)
 字は行満
 西域の胡人
 煬帝が殺されると
 楊 侗 (ヨウトウ) を皇帝に立て
 不和となると専権をふるい
 楊 侗を廃して
 鄭国を建て帝位につき
 楊 侗を毒殺
 李世民 (唐の太宗 ) に攻められて捕えられ殺された
 ↓↑
 本姓は支氏
 西域胡人の子孫
 王は祖母の再婚先の姓
 王世充は
 兵法・卜占・暦法などに長じ
 煬帝の寵臣となった
 反乱軍討伐のため洛陽に駐屯
 煬帝が殺されて
 帝の孫
 越王侗が洛陽に即位すると軍事権を握り
 619年(皇泰二年)
 楊侗を廃して鄭国を建国
 華北
 唐・鄭・夏(竇建徳(トウケントク))に三分
 鄭は夏と結んで唐に当たったが
 李世民(太宗)に攻め落とされ
 長安に送られた後殺された
 ↓↑
 恭帝 侗(キョウテイ トウ)
 隋の第4代皇帝
 元号を皇泰とし
 皇泰主とも史称
 姓・諱 楊侗
 字   仁謹
 諡号 恭皇帝
 生年 仁寿4年(604年)
 没年 開明元年(619年)6月
 父  楊昭
 母  小劉良娣
 年号 皇泰 618年~619年
 ↓↑
 元徳太子の
 楊昭の次男
 大業3年(607年)
 祖父の
 煬帝
 越王に立てられた
 大業9年(613年)
 「楊玄感の乱」が起こると
 戸部尚書
 樊子蓋
 とともに洛陽を守備
 東都留守のまま
 高陽郡太守に任じられた
 大業13年(617年)
 煬帝が江都に下ると
 段達・元文都・韋津・皇甫無逸
 らとともに洛陽を守った
 洛口倉に拠った
 李密がしばしば攻勢をかけ
 王世充らを派遣して一進一退を繰り返し
 大業14年(618年)
 煬帝が宇文化及らに殺され
 段達らに擁立されて即位
 ↓↑
 段達が礼部尚書・右翊衛大将軍
 王世充が吏部尚書・左翊衛大将軍
 元文都が内史令・左驍衛大将軍
 盧楚が内史令
 皇甫無逸が兵部尚書・右武衛大将軍
 郭文懿が内史侍郎
 趙長文が黄門侍郎
 朝廷を牛耳る段達らを「七貴」と称した
 元文都・盧楚・郭文懿・趙長文
 らは
 王世充に殺害され
 皇甫無逸は長安に逃れて唐に帰順した
 ↓↑
 王世充が李密を破って実権を掌握
 皇泰2年(619年)5月
 恭帝は王世充に禅譲
 潞国公に封ぜられ
 王世充によって服毒自殺を命じられ
 服毒するが
 死ななかったために縊り殺された
ー↓↑ーーー
 「陽侯=陽胡」氏・・・ヤゴ=水蠆(スイタイ)
            トンボ=蜻蛉の幼虫
 ↓↑
 ヤゴはトンボの幼虫(ヨウチュウ)
 ヤゴ(水蠆)はトンボ目(蜻蛉目)
 不均翅亜目の幼虫
 推古天皇十年(602年)
 百済の僧侶
 観勒
 が日本に渡来
 暦の本・天文地理の書・遁甲方術の書
 を朝廷に貢いだ
 書生3、4名を選んで
 観勒の元で学ばせ
 「玉陳」
 は暦法を学んでこれを修めた
 ↓↑
 陽侯 真身(やこ の まみ・むざね)
 父 不詳
 母 不詳
 子女
 陽侯 令珍
 陽侯 令珪
 陽侯 令璆
 陽侯 人麻呂
 ↓↑
 官位は従五位下・但馬守
 元正天皇
 養老六年(722年)
 矢集虫麻呂
 大和長岡
 らと共に
 養老律令撰修の功労により功田を与えられ
 真身の功田は4町
 聖武天皇
 天平二年(730年)
 通訳養成のために
 粟田馬養
 ら4人と共にそれぞれ
 弟子を2人取り漢語を教授
 『楊氏漢語抄』は真身の著作という説・・・
 天平七年(735年)
 外従五位下
 天平10年(738年)四月
 豊後守
 天平十三年(741年)八月
 但馬守
 地方官を歴任
 四月
 巨勢奈弖麻呂
 藤原仲麻呂
 らとともに
 河内国摂津国
 河の塘(茨田堤)の境を争っている場所を巡検
 天平二十年(748年)
 外従五位上
 従五位下に昇叙
 孝謙朝初頭
 但馬守
 東大寺大仏建立で
 銭1000貫
 牛1頭を献上
 ↓↑
 陽侯 麻呂(やこ の まろ)
 姓は史
 官職は大隅国
 陽侯氏(陽侯史=陽侯忌寸)
 隋の煬帝の子孫
 達率
 楊候
 阿子王
 の末裔を称する
 「楊候・楊胡・陽候・陽胡」
 とも記録
 文武天皇四年(700年)
 僧の
 「通徳」
 が還俗して
 「陽侯史」の姓と
 「久爾曾」の名を与えられ
 勤広肆に叙せられた
 陽侯麻呂
 国司に任命
 ↓↑
 大隅国守在任中の
 養老四年(720年)
 反乱を起こした隼人によって殺害
 二月二十九日
 に大宰府から朝廷に報告
 「隼人の反乱」
 勃発
 ↓↑
 陽侯 令璆(やこ の れいきゅう/りょうぐ)
 名は「玲璆」とも記録
 姓は史(毘登)
 のち忌寸
 但馬守
 陽侯真身の子
 官位は外従五位下・豊後介
 名は玲璆とも記録
 ↓↑
 天平感宝元年(749年)
 東大寺大仏建立で
 令珍ら兄弟3人と共に
 千貫の貢銭を行い
 令璆は
 従八位上から外従五位下に叙せられた
 天平宝字三年(759年)
 越後守任官
 天平宝字四年(760年)
 渤海使
 高南申
 を渤海に送り届けて帰国し
 内位の従五位下に叙せられる
 天平宝字七年(763年)
 内匠助
 神護景雲二年(768年)
 一族64名が
 史(毘登)姓から
 忌寸姓に改姓した際
 弟の
 人麻呂が一族の代表
 淳仁朝から
 称徳朝にかけて政争に巻き込まれた・・・
 宝亀九年(778年)
 外従五位下に復され
 宝亀十一年(780年)
 尾張
 天応元年(781年)
 尾張
 天応二年(782年)
 豊後介
 光仁朝末~桓武朝初頭に
 地方官を歴任
 ↓↑
 陽侯 令珍(やこ の れいちん・りょうちん)
 名は「玲珍」とも記録
 姓は史(毘登)
 但馬守・陽侯真身の子
 官位は外従五位下・日向守
 天平感宝元年(749年)
 東大寺大仏造営に
 弟3人と共にそれぞれ
 銭1000貫を貢進
 従七位上~外従五位下に叙せられる
 淳仁
 漆部正
 伊賀守・日向守
 の地方官を歴任
 神護景雲二年(768年)
 族64名が
 史(毘登)姓から忌寸姓に改姓
 弟・人麻呂が一族の代表とされた
ーーーーー
 ・・・???