イワの破片・・・火山弾・・・空中爆弾でB29を撃墜・・・
3137日目・文字霊日記
「つ-ごもり」・・・「つも-ごり」・・・
本日、正月参拾壱日・・・1月31日・・・
↓↑
つごもり(晦・晦日)
つもごり(自摸語理)
・・・自摸(つも)=麻雀で持ってきた牌
順次に
卓上に積んである 牌(パイ) を
とってくること
また、とってきた牌で上がること
壁牌(山)から牌を1枚取る行為
自摸をした牌の事を
自摸牌(ツモハイ)と云う
ツモ(自摸)は自力で
ロン(栄和・ロンホー)は他家の捨牌で
ロンの漢字は元々が
ロン=攏=揃える・整える
α+龍・・・朧(おぼろ)・朧月夜・朦朧
襲(おそう・かさねる)・襲撃
籠(かご)・籠絡
瀧(たき)・鳴瀧塾
聾(つんぼ)・聾啞者
舌敝耳聾(ゼッペイジロウ)
嚨(のど)
寵(めぐみ)・寵臣・寵愛
攏=扌+龍
扌+立+月+丂+乚+三(☰)
一+ㄣ+匚+三(☰)
ト+コ+乚+三(☰)
ロウ
集める・寄せ集める
一つにまとめる
持つ・かかえる
近づく・近づける
髪を梳(と)く
髪を梳(す)く
琴や琵琶の弦を押さえる
和了(フーリャオ・ホーラ・あがり)
勝ってgame over・・・
龍=龒=竜=龙・・尤(もっとも・ユウ・ウ)+㇒
龙 =ナ +𠤎(七𠤎ヒ匕=乚+㇒)
龍=立+月+𠤎+㇘+乚+☰(乾・天)
高さが八尺以上の馬・優れた馬
儱・龎・徿・嚨・瀧・蘢・壠・攏・龏・壟
巃・龐・寵・隴・巄・爖・瓏・曨・櫳・龑
㰍・竉・龒・䆍・矓・礱・礲・襱・聾・龕
蠪・龓・䌬・襲・蠬・龔・䏊・䶬・籠・讋
豅・贚・躘・䡁・鑨・靇・䪊・㘛・䮾・驡
鸗・龖・龗・龘
↓↑
月=つき・ゲツ・ジク=肉・・・妊婦の臨月の腹の
解譯(訳) 膨張(ふくらみ)
と
出産後の収縮
パンパンとペッちゃんこ
肉=にく・ジク=月・・・・・・満腹(ポンポン)
と
空腹・腹減り
ポンポンとペッチャンコ
↓↑
鱈=魚+雪(雨+彐・彑・ヨ・⺕)
和製漢字(国字)
鱈腹=たらふく
腹いっぱい食べる
「たらふく(鱈腹)」
「足(た)らい脹(ふく)くるる」
「満足して(腹が)脹れる」
「鱈河豚・鮐・鯸・鰒」
↓↑
「YouTube」を検索目次をみていたら・・・
【日本史】実は三千名以上が戦死
日本にはレーダーもあったし
迎撃機は出撃していたし
高射砲も届いていた
堕とされたB-29・485機
搭乗米兵の死者・3041人
神風特攻隊死者・約4000人
↓↑
・・・
「岩本徹三」零戦虎徹
最強の零戦パイロットと謳われた「零戦撃墜王」
総撃墜機数202
協同撃墜機数26
地上撃破2
↓↑
「磐」の漢字から考える
「岩戸開き」・・・宇受女=猨女
・・・猿田彦
提督(底度久)の溺死
伊勢の阿邪訶(あざか・一志郡阿坂村・松阪市)
の海で
「比良夫貝(ひらふがい)」
に手を挟まれ溺死
「底度久御魂(そこどくみたま)」
テイトク=提督・綴解句
「都夫多都御魂(つぶたつみたま)」
トブタト=飛武蛇譯
「阿和佐久御魂(あわさくみたま)」
アワサク=沫(泡)炸裂
↓↑
「磐井の乱」・・・527年(継体天皇二十一年)
継体天皇
507年 58歳
河内国
樟葉宮
(くすはのみや
大阪府枚方市)
で即位
武烈天皇の姉
「手白香」皇女を皇后とした
諱 男大迹(ヲホド)
別称 袁本杼命・男大迹王
彦太尊
雄大迹天皇
乎富等大公王
近江毛野率の大和朝廷軍
と
筑紫君「磐井」・・・磐余=神武天皇
の戦い
継体天皇二十二年
528年11月11日
国造(くにのみやっこ・コクゾウ)
「磐井」軍
と
「物部 麁鹿火」
率いる大和朝廷軍が
筑紫三井郡
(福岡県小郡市・三井郡付近)
で交戦
「物部麁鹿火」
に敗北鎮圧され殺され
磐井の息子
「筑紫葛子」・・・葛=くず=屑・頽・国栖・樟
葛城皇子=中大兄皇子=天智天皇
は連座から逃れるため
糟屋(福岡県糟屋郡付近)の屯倉を
大和朝廷へ献上し
死罪を免ぜられた・・・?
↓↑
磐=いわ=巌・巖・伊波・違和・維和
=岩=石=いし=意思・意志・遺志・遺子・医師
縊死・頤使・伊司・李氏・偉史・猪子・易氏
↓↑
「磐余(いわれ・謂われ・謂我)」・・・
意倭禮・異割れ(糲・郲・礪・例)
ーー↓↑ーー
以下の参考原文は「ウイッキぺデア」
↓↑
「岩本徹三(いわもと てつぞう)
1916年6月14日
~
1955年5月20日)」
大運1954年3月(37歳)戊戌偏官
丙辰(乙癸戊)偏財・傷官墓⇔乙未傷官
甲午(丙 丁)食神・偏財胎⇔辛巳印綬
壬午(丙 丁) ・偏財胎⇔辛巳印綬
丙午(丙 丁)偏財・偏財胎⇔甲午食神
申酉空亡
↓↑
日本海軍の軍人
支那事変、太平洋戦争における撃墜王
最終階級は海軍中尉
零戦虎徹
最強の零戦パイロット
「零戦撃墜王」
総撃墜機数 202
協同撃墜機数 26
地上撃破 2
↓↑
1916年(大正五年)6月14日
樺太国境近く
警察官の父親の元に三男一女の兄弟の三男
父親が北海道札幌市の署長に転勤
13歳
父親が退官
父の故郷である
島根県益田へ移転
県立益田農林学校高等科2年に転入
大学受験と偽って
海軍の志願兵試験(予科練習生予定者)に合格
航空科選択
↓↑
1934年(昭和九年)6月1日
呉海兵団
四等航空兵
1934年11月15日
三等航空兵
1935年
第31期普通科整備術練習生として
霞ヶ浦海軍航空隊に入隊
8月20日
三等整備兵
航空母艦
龍驤の艦上整備員
11月2日
二等整備兵
操縦員を志望
1936年(昭和十一年)4月28日
第34期操縦練習生として
霞ヶ浦海軍航空隊に入隊
1936年12月26日
第34期操縦練習生卒業
一等航空兵
佐伯海軍航空隊勤務
1937年6月1日
普通善行章一線付与
1937年7月
大村航空隊勤務
↓↑
1937年8月
支那事変
1938年2月
第十三航空隊付
南京に着任
2月25日
南昌空襲に出撃
一中隊(田熊繁雄大尉指揮)三小隊
三番機
戦果は、I-15 4機(うち1機不確実)
I-16 1機
撃墜
1938年4月30日
漢口空襲で感状授与
1938年5月1日
三等航空兵曹
支那事変半年間で
撃墜数14機
1939年11月1日
善行章第二線付与
二等航空兵曹
1940年(昭和十五年)
支那事変論功行賞で
生存者金鵄勲章
1942年(昭和十七年)8月1日
感状の授与
勲七等
功5級金鵄勲章叙勲
↓↑
大東亜戦争
空母「瑞鶴」
1940年4月
連合艦隊第1艦隊所属第1航空戦隊
「龍驤」で
母艦訓練参加
1941年(昭和十六年)4月
第1航空艦隊(1航艦)創設で
第1航空艦隊所属
第3航空戦隊
「瑞鳳」戦闘機隊に配属
1941年5月1日
海軍一等航空兵曹
(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)
1941年秋
高速大型空母
「翔鶴」、「瑞鶴」
が就役
第5航空戦隊が創設
10月4日
瑞鳳戦闘機隊隊員たちは
第5航戦に編入
「瑞鶴」および「翔鶴」に着任
1941年12月
大東亜戦争開戦
真珠湾奇襲作戦参加
第一航空艦隊所属の航空母艦
「瑞鶴」戦闘機隊員
真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務
1941年12月24日
感状授与
↓↑
1942年4月
インド洋作戦
4月5日
機動部隊に接触してきた
コンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜
1942年5月
MO作戦
5航戦は一航艦から第4艦隊指揮下
↓↑
「珊瑚海海戦」に
「瑞鶴」上空直掩で参加
1942年5月8日
瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒
13機は
「敵三十機味方主力方向に向かう」
との報告で緊急発艦
先行の岩本小隊3機は
米攻撃隊を発見
ウォーレス・C・ショート大尉
率いる17機
米軍急降下爆撃機を攻撃
味方戦闘機を
攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見
岩本は1機を撃墜
戦闘後、瑞鶴に着艦補給
↓↑
米軍第二次攻撃迎撃
他の小隊と共に発艦
岩本隊は
レキシントンからの
F4F戦闘機に護衛された
SBD爆撃機を捕捉
空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃
後続の敵雷撃機の攻撃を予想し
1,2中隊12機で上空哨戒
瑞鶴がスコールに退避したが
爆撃で飛行機の発着が不能
TBDデバステーターが現れ
岩本はTBD雷撃機を攻撃
10分後に味方戦闘機を攻撃準備中の
敵F4F戦闘機を発見し救援援護
レキシントン隊
オールト中佐のSBD4機が
翔鶴を集中攻撃
500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中
母艦瑞鶴に翔鶴隊と共に着艦
補給後に7機を指揮し上空直衛
後に、米空母を攻撃した日本軍機が帰還
翔鶴が着艦不能なため
全て瑞鶴に収容
↓↑
珊瑚海海戦
攻撃隊の多くの搭乗員を失った
1942年6月15日
「瑞鶴」
アリューシャン攻撃部隊支援として出撃
8月
搭乗員の教育要員として大村空に転属
後、横空に転属
1942年11月1日
上等飛行兵曹
1943年(昭和十八年)2月上旬
追浜空所属機に搭乗
芦ノ湖上空、富士山上空を飛翔
↓↑
ラバウル方面
1943年3月
岩本は281空の開隊とともに配属
1943年4月1日
海軍飛行兵曹長
分隊士
5月
対アリューシャン方面の最前線
幌筵島武蔵基地に進出
1943年11月
岩本ら281空の16名
ラバウルに派遣
第二〇一航空隊に編入
一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃
敵7機を撃墜報告
隊全体で敵52機を撃墜
3号爆弾で敵14機編隊を一度に撃墜
岩本は直長として編隊指揮
岩本は搭乗士官(飛曹長=准士官)
として空中指揮を担当
↓↑
1943年12月
第二〇四海軍航空隊へ異動
ブーゲンビル島の
タロキナ飛行場への攻撃
単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功
20機以上の米軍機を銃撃で破壊
12月以降
敵戦爆連合のラバウル空襲
日本軍は約20~30機の零戦で対抗
アメリカ軍は過剰に見誤り
日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗と考えていた
敵撃墜50機以上
1月7日
撃墜戦果は翌日奏上され御嘉賞された
↓↑
ラバウル
米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中
岩本は
1943年12月4日
ラバウルで邀撃後
多くの日本軍戦闘機を
撃墜したアメリカ軍機の基地帰還時を
待ち伏せ攻撃で奇襲撃墜
「送り狼」戦法
攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する
「敵攻撃の直接的阻止」を目的に置かない
「送り狼」戦法
1943年12月15日感状授与
1944年(昭和十九年)1月
204空のトラック島撤退
機材人材を引き継いだ
二五三空に異動
1943年末~1944年2月
岩本飛曹長の搭乗した
253航空隊の102号機は
零戦二二型
撃墜数を表す桜のマークが60~70個も描かれ
機体後部がピンク色になった
↓↑
B-29を一撃で撃墜
三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃
背面で機銃攻撃に入る代わりに
爆弾を投下し
敵編隊から降下速度を利用し
敵機の後方に抜ける戦法
三号弾は
1942(昭和17)年後半に導入
1943年12月9日
岩本らの小隊による試用攻撃で
帰途集結旋回中の
編隊26機を一気に撃墜
その後一撃で艦爆14機
トラック基地B-24迎撃戦で確実に命中
↓↑
1944年2月
トラック島
米機動艦隊により大損害
二五三空はラバウルより撤収
トラック島に移動
二五三空
飛行可能機が搭乗員の1/3
1944年6月
機材を自力で補充するべく
岩本ら空輸要員4名を内地に派遣帰還
着後に始まったサイパン島の戦いで
機材受領後に再びトラック島への主要空路が遮断され
トラック復帰は取り止め
木更津空にとどまった
1944年8月
三三二空に異動
↓↑
二五二空
1944年(昭和十九年)9月
第252海軍航空隊戦闘
↓↑
10月
台湾沖航空戦
フィリピン沖海戦
参加
↓↑
1944年10月末
第二航空艦隊の
第二神風特別攻撃隊の志願者募集の際
岩本は
「死んでは戦争は終わりだ。
われわれ戦闘機乗りは
どこまでも戦い抜き
敵を
一機でも多く叩き落としていくのが
任務じゃないか。
一度きりの体当たりで死んでたまるか。
俺は否だ」
↓↑
近接護衛戦闘機として
数十機の特攻機の突入を目の当たりにし
数刻前まで共に存在していた人々が
消えてしまったことに
「髪の毛が逆立つ思いであった」
「せめて彼らの最後と、その戦果を
詳細に見届けておこうと
私は何時までも上空を旋回していた」
↓↑
1944年11月1日
海軍少尉
第二五二海軍航空隊戦闘三一一飛行隊
1945年2月16日
米軍ジャンボリー作戦に対する関東地区迎撃戦に参加
↓↑
二〇三空
1945年(昭和二十年)3月末
二〇三空戦闘
三〇三飛行隊
夜間
単機強行偵察で
沖縄戦開始の
米軍上陸地点を確認
夜間強行偵察で
単機で慶良間諸島で
上陸作業中の
米軍艦艇を銃撃し
大損害を与えた
4月7日
坊ノ岬沖海戦の事後迎撃
鹿屋航空基地上空での
B-29編隊単機撃墜
↓↑
「零戦虎徹」
虎徹=二文字は新選組局長・近藤勇の佩刀
刀工長「曾彌虎徹興里」になぞらえたもの
「天下の浪人」
1945年6月
二〇三空補充部隊
岩国で
B-29の編隊に対して零戦で自爆特攻をする
「天雷特別攻撃隊」
の教官
1945年8月15日
終戦
ポツダム進級によって
1945年9月5日
海軍中尉、予備役編入
↓↑
戦後
東京GHQに2度呼び出され
公職追放
日本開拓公社に入社
昭和22年2月11日
同郷の
幸子夫人と見合い結婚
3日後に北海道の開拓に単身出発
1年半で心臓を病み帰郷
1952年(昭和27年)
GHQ統治支配が終わり
益田大和紡績会社に就職
1953年(昭和28年)
盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術3回
戦傷の背中が痛み4,5回の手術
最後は敗血症で
1955年(昭和30年)5月12日
逝去・享年38
「磐」の漢字から考える「岩戸開き」・・・
↓↑
磐=いわ=巌・巖・伊波・違和・維和
=岩=石=いし=意思・意志・遺志・遺子・医師
縊死・頤使・伊司・李氏・偉史・猪子・易氏
↓↑
「磐余(いわれ・謂われ・謂我)」・・・
意倭禮・異割れ(糲・郲・礪・例)
↓↑
「岩本徹三(いわもと てつぞう)
1916年6月14日
~
1955年5月20日)」
大運1954年3月(37歳)戊戌偏官
丙辰(乙癸戊)偏財・傷官墓⇔乙未傷官
甲午(丙 丁)食神・偏財胎⇔辛巳印綬
壬午(丙 丁) ・偏財胎⇔辛巳印綬
丙午(丙 丁)偏財・偏財胎⇔甲午食神
申酉空亡
↓↑
日本海軍の軍人
支那事変、太平洋戦争における撃墜王
最終階級は海軍中尉
零戦虎徹
最強の零戦パイロット
「零戦撃墜王」
総撃墜機数 202
協同撃墜機数 26
地上撃破 2
↓↑
1916年(大正五年)6月14日
樺太国境近く
警察官の父親の元に三男一女の兄弟の三男
父親が北海道札幌市の署長に転勤
13歳
父親が退官
父の故郷である
島根県益田へ移転
県立益田農林学校高等科2年に転入
大学受験と偽って
海軍の志願兵試験(予科練習生予定者)に合格
航空科選択
↓↑
1934年(昭和九年)6月1日
呉海兵団
四等航空兵
1934年11月15日
三等航空兵
1935年
第31期普通科整備術練習生として
霞ヶ浦海軍航空隊に入隊
8月20日
三等整備兵
航空母艦
龍驤の艦上整備員
11月2日
二等整備兵
操縦員を志望
1936年(昭和十一年)4月28日
第34期操縦練習生として
霞ヶ浦海軍航空隊に入隊
1936年12月26日
第34期操縦練習生卒業
一等航空兵
佐伯海軍航空隊勤務
1937年6月1日
普通善行章一線付与
1937年7月
大村航空隊勤務
↓↑
1937年8月
支那事変
1938年2月
第十三航空隊付
南京に着任
2月25日
南昌空襲に出撃
一中隊(田熊繁雄大尉指揮)三小隊
三番機
戦果は、I-15 4機(うち1機不確実)
I-16 1機
撃墜
1938年4月30日
漢口空襲で感状授与
1938年5月1日
三等航空兵曹
支那事変半年間で
撃墜数14機
1939年11月1日
善行章第二線付与
二等航空兵曹
1940年(昭和十五年)
支那事変論功行賞で
生存者金鵄勲章
1942年(昭和十七年)8月1日
感状の授与
勲七等
功5級金鵄勲章叙勲
↓↑
大東亜戦争
空母「瑞鶴」
1940年4月
連合艦隊第1艦隊所属第1航空戦隊
「龍驤」で
母艦訓練参加
1941年(昭和十六年)4月
第1航空艦隊(1航艦)創設で
第1航空艦隊所属
第3航空戦隊
「瑞鳳」戦闘機隊に配属
1941年5月1日
海軍一等航空兵曹
(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)
1941年秋
高速大型空母
「翔鶴」、「瑞鶴」
が就役
第5航空戦隊が創設
10月4日
瑞鳳戦闘機隊隊員たちは
第5航戦に編入
「瑞鶴」および「翔鶴」に着任
1941年12月
大東亜戦争開戦
真珠湾奇襲作戦参加
第一航空艦隊所属の航空母艦
「瑞鶴」戦闘機隊員
真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務
1941年12月24日
感状授与
↓↑
1942年4月
インド洋作戦
4月5日
機動部隊に接触してきた
コンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜
1942年5月
MO作戦
5航戦は一航艦から第4艦隊指揮下
↓↑
「珊瑚海海戦」に
「瑞鶴」上空直掩で参加
1942年5月8日
瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒
13機は
「敵三十機味方主力方向に向かう」
との報告で緊急発艦
先行の岩本小隊3機は
米攻撃隊を発見
ウォーレス・C・ショート大尉
率いる17機
米軍急降下爆撃機を攻撃
味方戦闘機を
攻撃中の米F4F戦闘機隊を発見
岩本は1機を撃墜
戦闘後、瑞鶴に着艦補給
↓↑
米軍第二次攻撃迎撃
他の小隊と共に発艦
岩本隊は
レキシントンからの
F4F戦闘機に護衛された
SBD爆撃機を捕捉
空母護衛の日本軍巡洋艦に向かった急降下爆撃機に攻撃
後続の敵雷撃機の攻撃を予想し
1,2中隊12機で上空哨戒
瑞鶴がスコールに退避したが
爆撃で飛行機の発着が不能
TBDデバステーターが現れ
岩本はTBD雷撃機を攻撃
10分後に味方戦闘機を攻撃準備中の
敵F4F戦闘機を発見し救援援護
レキシントン隊
オールト中佐のSBD4機が
翔鶴を集中攻撃
500ポンド爆弾の1発が艦橋後方に命中
母艦瑞鶴に翔鶴隊と共に着艦
補給後に7機を指揮し上空直衛
後に、米空母を攻撃した日本軍機が帰還
翔鶴が着艦不能なため
全て瑞鶴に収容
↓↑
珊瑚海海戦
攻撃隊の多くの搭乗員を失った
1942年6月15日
「瑞鶴」
アリューシャン攻撃部隊支援として出撃
8月
搭乗員の教育要員として大村空に転属
後、横空に転属
1942年11月1日
上等飛行兵曹
1943年(昭和十八年)2月上旬
追浜空所属機に搭乗
芦ノ湖上空、富士山上空を飛翔
↓↑
ラバウル方面
1943年3月
岩本は281空の開隊とともに配属
1943年4月1日
海軍飛行兵曹長
分隊士
5月
対アリューシャン方面の最前線
幌筵島武蔵基地に進出
1943年11月
岩本ら281空の16名
ラバウルに派遣
第二〇一航空隊に編入
一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃
敵7機を撃墜報告
隊全体で敵52機を撃墜
3号爆弾で敵14機編隊を一度に撃墜
岩本は直長として編隊指揮
岩本は搭乗士官(飛曹長=准士官)
として空中指揮を担当
↓↑
1943年12月
第二〇四海軍航空隊へ異動
ブーゲンビル島の
タロキナ飛行場への攻撃
単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功
20機以上の米軍機を銃撃で破壊
12月以降
敵戦爆連合のラバウル空襲
日本軍は約20~30機の零戦で対抗
アメリカ軍は過剰に見誤り
日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗と考えていた
敵撃墜50機以上
1月7日
撃墜戦果は翌日奏上され御嘉賞された
↓↑
ラバウル
米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中
岩本は
1943年12月4日
ラバウルで邀撃後
多くの日本軍戦闘機を
撃墜したアメリカ軍機の基地帰還時を
待ち伏せ攻撃で奇襲撃墜
「送り狼」戦法
攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する
「敵攻撃の直接的阻止」を目的に置かない
「送り狼」戦法
1943年12月15日感状授与
↓↑
1944年(昭和十九年)1月
204空のトラック島撤退
機材人材を引き継いだ
二五三空に異動
1943年末~1944年2月
岩本飛曹長の搭乗した
253航空隊の102号機は
零戦二二型
撃墜数を表す桜のマークが60~70個も描かれ
機体後部がピンク色になった
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B-29を一撃で撃墜
三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃
背面で機銃攻撃に入る代わりに
爆弾を投下し
敵編隊から降下速度を利用し
敵機の後方に抜ける戦法
三号弾は
1942(昭和17)年後半に導入
1943年12月9日
岩本らの小隊による試用攻撃で
帰途集結旋回中の
編隊26機を一気に撃墜
その後一撃で艦爆14機
トラック基地B-24迎撃戦で確実に命中
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1944年2月
トラック島
米機動艦隊により大損害
二五三空はラバウルより撤収
トラック島に移動
二五三空
飛行可能機が搭乗員の1/3
1944年6月
機材を自力で補充するべく
岩本ら空輸要員4名を内地に派遣帰還
着後に始まったサイパン島の戦いで
機材受領後に再びトラック島への主要空路が遮断され
トラック復帰は取り止め
木更津空にとどまった
1944年8月
三三二空に異動
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二五二空
1944年(昭和十九年)9月
第252海軍航空隊戦闘
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10月
台湾沖航空戦
フィリピン沖海戦
参加
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1944年10月末
第二航空艦隊の
第二神風特別攻撃隊の志願者募集の際
岩本は
「死んでは戦争は終わりだ。
われわれ戦闘機乗りは
どこまでも戦い抜き
敵を
一機でも多く叩き落としていくのが
任務じゃないか。
一度きりの体当たりで死んでたまるか。
俺は否だ」
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近接護衛戦闘機として
数十機の特攻機の突入を目の当たりにし
数刻前まで共に存在していた人々が
消えてしまったことに
「髪の毛が逆立つ思いであった」
「せめて彼らの最後と、その戦果を
詳細に見届けておこうと
私は何時までも上空を旋回していた」
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1944年11月1日
海軍少尉
第二五二海軍航空隊戦闘三一一飛行隊
1945年2月16日
米軍ジャンボリー作戦に対する関東地区迎撃戦に参加
二〇三空
1945年(昭和二十年)3月末
二〇三空戦闘
三〇三飛行隊
夜間
単機強行偵察で
沖縄戦開始の
米軍上陸地点を確認
夜間強行偵察で
単機で慶良間諸島で
上陸作業中の
米軍艦艇を銃撃し
大損害を与えた
4月7日
坊ノ岬沖海戦の事後迎撃
鹿屋航空基地上空での
B-29編隊単機撃墜
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「零戦虎徹」
虎徹=二文字は新選組局長・近藤勇の佩刀
刀工長「曾彌虎徹興里」になぞらえたもの
「天下の浪人」
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1945年6月
二〇三空補充部隊
岩国で
B-29の編隊に対して零戦で自爆特攻をする
「天雷特別攻撃隊」
の教官
1945年8月15日
終戦
ポツダム進級によって
1945年9月5日
海軍中尉、予備役編入
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戦後
東京GHQに2度呼び出され
公職追放
日本開拓公社に入社
昭和22年2月11日
同郷の
幸子夫人と見合い結婚
3日後に北海道の開拓に単身出発
1年半で心臓を病み帰郷
1952年(昭和27年)
GHQ統治支配が終わり
益田大和紡績会社に就職
1953年(昭和28年)
盲腸炎を腸炎と誤診され腹部を大手術3回
戦傷の背中が痛み4,5回の手術
最後は敗血症で
1955年(昭和30年)5月12日
逝去・享年38
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海軍時代を
詳細に記した大学ノート3冊の回想録
話題社
中村正利が遺稿の存在を知り
作家
秦郁彦が監修協力し
「零戦撃墜王」
と題し出版
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海軍時代を
詳細に記した大学ノート3冊の回想録
話題社
中村正利が遺稿の存在を知り
作家
秦郁彦が監修協力し
「零戦撃墜王」
と題し出版
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・・・???・・・
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ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2022/1
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干支歴
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
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