砂、砂利より「米穀」なァらぁ~よォ~かァろォ~ォなァ~・・・喰えるから・・・

 3082日目・文字霊日記

 米国・・・亜米利加の「米穀」のオコボレが喰えるのカナ・・・

 C・K・SK・・・世界的な自然災害・・・飢饉を救えるか・・・?

 十三湊遺跡・・・
 丰(ホウ)
 𡗗=龵+乀
 𡗗+α
 春=𡗗+日
 舂=𡗗+臼
 泰=𡗗+氺
 秦=𡗗+禾
 奉=𡗗+キ
 奏=𡗗+夭
 一+夫+「禾・夭・氺・‡(十+一)・日・臼」
 二+大+「禾・夭・氺・‡(十+一)・日・臼」
 三+人+「禾・夭・氺・‡(十+一)・日・臼」
 ↓↑
 春≠舂≠秦≠奏≠泰≠奉≠春≠舂

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 ↓↑
 秦=三+人+禾
   一+人+禾
   シン
   はた
   国名・戦国時代の七雄の一
   姓氏の一種
   ↓↑
   蓁溱嗪嫀獉
   搸殝榛瑧臻
   縥螓轃㰉䆐
 ↓↑
 太秦=うずまさ・はた・はだ
 右秦=うはた
 大秦=おおはた・おおばた
 秦 =しん・しんの・じん・たい
    はた・はだ・みな
 秦泉寺=しんせんじ・しんぜんじ
     じんせんじ・じんぜんじ
 朝秦暮楚(チョウシンボソ)
  一定の場所に生活の拠点をもたず
  ふらふらと放浪すること
  信念や主義などが
  すぐに変わる人のこと
  朝には秦の国にいたのに
  夕方には楚の国にいる
  出典 晁補之「北渚亭賦」
 ↓↑
 湊=氵+奏=凑
   氵+三+人+天
   氵+三+人+夭
   氵+一+人+丿+大
   ソウ
   あつまる
   みなと
   集まる・集める・人や物が集まる
   港・船着き場・船の集まるところ
 ↓↑
 奏=三+人+天
   三+人+夭
   一+人+丿+大
   ソウ
   かなでる
   すすめる・差し上げる・献上する
   もうす・申し上げる
   かなでる・演奏する
   なしとげる・やりとげる
   奏=かなつ・しん・はた
   奏(かな)でる
   楽器を演奏すること
   特に弦楽器の演奏
   奏(すす)める
   合奏
   複数の楽器を使って
   一つの曲を演奏すること
   四重奏
   四種類の楽器で行う演奏
   カルテット
   重奏
   複数の楽器で
   異なる声部に分かれて
   行う室内楽の合奏
   序奏
   楽曲で主な部分の前に
   演奏される音楽・導入部
   吹奏
   管楽器などを吹いて演奏すること
   帷幄上奏(イアクジョウソウ)
   君主制国家で
   帷幄機関である軍部が
   君主に軍事事項を上奏すること
   「帷」=垂れ幕
   「幄」=引き幕
   昔の陣営に幕をめぐらした
   作戦場所
   本陣や本営・軍部
   先斬後奏(センザンコウソウ)
   指示を受ける前に
   問題を解決し
   解決後に上の人に報告すること
   規則を破った人を処罰し
   その後
   君主に報告すること
   ↓↑
   奏+α
   凑湊揍楱腠辏輳

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 ↓↑
 青森県津軽半島北西部の日本海岸にある汽水湖
 十三湊遺跡
 ↓↑
 十三湖西側の十三地区
 (五所川原市十三、十三湖大橋南部の日本海と湖に挟まれた地域)
 「十三の砂山まつり」=8月14日~16日の盆踊り
 盆唄の「十三の砂山」
 歌 詞
 十三の~砂ア山ナアアアヤ~イ
 米イなアらアよオかアろオナア
 西の弁財衆ウウにア~エ・・・弁済使=運漕(海運)の従事者
 た~だ~つ~ましよ
 弁財衆にアナアアアヤ~イ
 ↓↑
 弁財衆にア西のナア
 西の弁財衆ウウにア~イ
 た~だアつ~ま~しよ ただつ~ま~しよ
 ↓↑
 十三の砂山
 米ならよかろ
 西の弁財衆にただ積ましよ
 弁財衆に西のな
 西の弁財衆にただ積ましよ
 二
 つつじ椿は山でこそ咲くが
 今は十三船のともに咲く
 十三船の今はな
 今は十三船のいともに咲く
 三
 笠を忘れた敦賀屋の宿さ
 西が曇れば思い出す
 曇れば西がな
 西が曇れば思い出す
 ↓↑
 地域名「十三」は、語源はアイヌ語の「トー・サム(湖畔)」・・・?
 十三の川が流入する湖に由来
 アイヌ語で「川尻の湖」
 ↓↑
 13=12+1
  子(12)→丑(1)→寅卯辰巳午未申酉戌亥→子(12)→丑(13)
       牛=ウシ=宇志=大人=主=あるじ・・・紐(ひも)
  12使徒+キリスト+天主(ゼウス・ZEUS=是碓・是臼⇔是ウシ)
  12使徒+キリスト+マリア
    ヘブライ語「ミリアム」
    ギリシア語「マリアム」
   『コーラン』「マルヤム聖母マリア)」第19章
          マリヤ・マグダレナ(MARY MAGDALENE)
    マグダラの「マリア(羅語 Maria Magdalena)」
          馬利亞・瑪利亞・瑪麗亞・瑪莉・瑪麗
  ↓↑
 イエス=移鼠(大秦景教流行中国碑)・・・移動するネズミ
         781年(唐代 建中二年)
        「伊斯」が建立
        「景浄」が撰碑文
         碑文
         32行・毎行62字・計約1900字
         書は
        「呂秀巌」
        「阿羅本」が景教を伝えた時に
         唐の太宗(タイソウ)=李世民
              第二代皇帝
              高祖=李淵の次男)
         が感激して
         宰相の「房玄齢」に出迎えさせ
         貞観十二年七月に
         詔勅を賜ったこと
         玄宗
         唐の武将
        「郭子儀」・・・「郭務悰」とはダレ?
         が
         景教を保護したコトが記録されている
         ↓↑
         1623年(天啓三年)or1625年(天啓5年)
         に出土
         明王朝末の
        「ディアス(陽瑪諾)」
         の
        『唐景教碑頌正詮』の序に
        「大明天啓三年」
         ポルトガルイエズス会
        「アルヴァロ・セメド(魯徳照)」
         の
        『支那通史』に記録
        ・・・12+1=13=丑=牛
               =大人(宇志=宇宙の志)=主=あるじ
               =一+人+人=一从(從 =従)
  12使徒          
   ガリラヤの漁夫シモン(ペトロ)
         アンデレ(ペトロの兄弟)
         ヤコブ
         ヨハネ(ヤコブの兄弟)
         フィリポ
         バルトロマイ
         トマス
         マタイ
         ヤコブ(小ヤコブ)
         タダイ
     熱心党のシモン
  イスカリオテのユダ
  ↓↑
  13使徒=マグダラの「マリア(羅語 Maria Magdalena)」?
      馬具妥覶の「馬利亞・瑪利亞・瑪麗亞・瑪莉・瑪麗」?      
 ↓↑
 戦国時代の
 『廻船式目』に
 「三津七湊」の一つとして
 「奥州津軽十三湊」と記録
  東北
 「阿倍・安東」氏の拠点
  ↓↑  ↓↑
  阿毘・・・安日彦(アビヒコ)・長髄彦ナガスネヒコ
  阿毎=九州熊本王朝
  ↓↑  ↓↑ ↓↑
     安東将軍・・・
     夷蛮伝・倭国の条(宋書倭国伝)
     兄の「興」が死亡
     弟の「武」が王に立ち
    「武」は
    「使持節
     都督倭
     百済新羅任那加羅・秦韓・慕韓
     七国諸軍事
     安東
     大将軍
     倭国王
     と自称
     唐の
     六都護府
     太宗の時に
     安東・安西
     安南・安北
     単于(ゼンウ)・北庭
     の六ヶ所に設置
    「安東」とは
    「旧高句麗安東都護府」・・・?
 ↓↑   ↓↑
     唐
     総章元年・(668年)9月・・・総ての章の元年
     高句麗
    「宝蔵王」二十七年・(668年)
     高句麗滅亡
    「安東」都護府設置
     朝鮮半島北中から
     満洲南に相当する
     高句麗の旧領域・・・
    「倭国の武王」は
    「安東大将軍=高句麗領有権」
     主張の王でもあった
 ↓↑   ↓↑
 唐朝が
 新羅の版図に設置した統治機関
 「都督府」制度
 唐が周辺の国々を征伐した後
 征服した国に設置した統治制度
 高句麗百済が唐朝により滅亡し
 旧高句麗
 「安東」都護府・・・安東「津軽」?
 旧百済
 「熊津」都督府・・・九州「熊本」?
 新羅
 「鶏林州」都督府・・・鶏・鷄・🐔・雞
 を設置
 朝鮮半島全域を
 藩属国から
 「羈縻州」・・・羈縻(きび)=羈は馬の面懸(おもがい)
                縻は牛の鼻綱(はなづな)
         馬や牛をつなぎ止めておくという意味
         異民族地域を唐王朝の州県に組み込みながら
         現地の異民族にその地の一定の統治権を分与し
         懐柔・州をまとめて監視するための
         都護府を置き
         都護府の長官以下の官吏と
               付属の軍隊は中央から派遣
 へと変更
 ↓↑
 南北国
 唐
 熊津・安東都護府
 統一新羅
 鶏林州都督府676~892・・・鶏・鷄・🐔・雞
              阿輩雞彌   雞彌
 安東都護府668~756・・・?
 渤海698~926
 ↓↑   ↓↑
 江戸時代前期までは「とさ」
     後期以降は「じゅうさん(じふさん)」と読む
 ↓↑
 烏孫→阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名⇔アテネ
 2018-08-23過去ブロ
 古事記字源
 ↓↑
 ・・・「十三湊(とさみなと)」の壊滅・・・
    「十三歳の宗女 壹與」
           「イオ(Io)」は「ゼウス」の愛人・恋人
            牝牛の姿に変身させられた「イオ」
           「ヘルメース」は「イオ(Io)」を救うため
           「イオ(Io)」の監視人
           「アルゴス」を石で撃ち殺し
           「アルゲイポンテース(アルゴスの殺戮者)」
            と呼ばれた・・・或る解意本出重素?
           「イオ(Io)」はエジプト(埃及)で女王となり
           エジプト人
           「デメテルデーメーテール
            出女氐(弖)留?
            出(妥・娞・俀)眼(目)照?
       ・・・武照(曌)=武媚
                 彼女を犯した 
                 ポセイドーン(海神)は
                 馬を贈って
                 彼女の怒りをといた   
                =掟・豊穣・飢餓の女神」
            と
           「イオ(Io)=イーオー」
            を
           「イシス (Isis) =オシリス(Osiris)の妻」
            と呼んだ
 「イオマンテ (iomante) =カムイ(神)を行かせる」儀式
 「イヨマンテ (iyomante) 」
  伊豫萬氐(弖)?
    阿弖流爲(アテルイ

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 ↓↑
 ナンで「とさみなと」なんだか?・・・「土佐港」・・・
ーーーーー
 安日彦(アビヒコ)=安日王・・・我孫子(あびこ)
          =安日長髄彦
     阿毎=阿部・安陪・安倍・阿倍・阿邊(阿辺)
        阿武・安歩・焙・虻・炙
        那賀須泥毘古(古事記
     登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ
     登美毘古(トミビコ)
     神武東征に抵抗した河内の豪族の長
     安日彦(アビヒコ)という兄がいた・・・
 鎌倉~室町期成立の
 『曽我物語』に
 蝦夷の祖を
 流罪にされた
 鬼王安日・・・・鬼室福信=?~663年=扶余福信
 ↓↑      百済の王族・将軍
         義慈王の父で
         百済
         第三十代武王(余璋)の甥
         官位は恩率(三品官)、のち佐平(一品官)
         鬼室氏の祖
         白村江の戦い(663年)以前に
         倭国百済の連合軍が大敗
 ↓↑      鬼宿=和名は魂緒の星(たまおのほし)
            魂讚星(たまほめぼし)
            二十八宿の一
            南方朱雀七宿の第2宿
 ↓↑         距星はかに座θ星
 とする伝承が記載
 長髄彦の兄
 彼と共に青森県弘前に逃れた
 or
 単独で津軽地方に流された・・・
 事記や日本書紀には
 安日彦の名は記録されていない
 ↓↑
 長髄彦一人が大和で死なず
 東北に落ち延びた(塩釜神社伝承)
 長髄彦(兄の安日彦または兄弟2人)が
 津軽に逃げてきたという伝承は
 中世以降の創作・・・
 ↓↑
 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ
 登美毘古(トミビコ)
 ↓↑
 饒速日命の手によって殺された
 ・・・或いは失脚後に故地に留まり死去
 自らを後裔と主張する
 矢追氏による自死したという説も・・・
 ↓↑
 旧添下郡
 鳥見郷(生駒市北部・奈良市富雄地方)付近
 あるいは
 桜井市付近に勢力を持った豪族
 長髄=邑の名(記紀
 ↓↑
 登美夜毘売(トミヤヒメ)=三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)
 登美夜須毘売(トミヤスヒメ)
 ↓↑
 登美毘古(トミビコ)の
 妹を
 ↓↑ 天の磐舟で・・・磐舟=UFO?
    斑鳩の峰
    白庭山に降臨した
    饒速日命ニギハヤヒノミコト
    饒速日=邇藝速日(古事記
 ↓↑ 櫛玉命(くしたまのみこと)
    飛行神社
    京都府八幡市にある神社
    飛行機の神
    饒速日命と航空事故の犠牲者などを祀る
    ギリシャ風の拝殿を持っている
    日本で最初に飛行原理を研究した
    二宮忠八・・・日本で初めて動力つき模型飛行実験に成功
    が創建(1915年・大正四年)
    1936年(昭和十一年)・・・十一念?
    忠八の死により廃絶・・・・注葉知?
    1955年(昭和三十年)
    忠八の息子
    二宮顕次郎・・・・・・・・顕(日並頁)の
                 次(似素意)の
                 郎(良阝=邑=大里=都)
 ↓↑ によって再興
 天照国照彦-火明-櫛玉(奇霊・奇魂)-饒 速日命
 ↓↑               =邇藝速日(古事記
 ↓↑ 物部氏、穂積氏、采女氏、熊野国造らの祖神・・・
 ↓↑
 の妻とし、仕え・・・「宇摩志麻遅命=可美真手」を産んだ
 中世の武将の
 伊達家が長髄彦の子孫・・・
 神武天皇
 浪速国
 青雲の
 白肩津に到着したのち
 孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち
 天皇の兄の
 五瀬命
 矢に当たって負傷、死亡
 後
 八十梟帥
 兄磯城
 を討った皇軍と再び戦い敗北
 金色の鳶が飛んでき
 神武天皇
 弓弭に止まり
 長髄彦の軍は
 眼が眩み、敗戦
ーーーーー
 秋田氏の系譜
 先祖に由来する
 「伊駒姓」
 伊駒長脛(ナガスネ)のこと
 生駒市北部
 奈良市富雄を勢力範囲としていた古代の王
 登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)=登美毘古(トミビコ)
 神武東征に対し最大の抵抗をした豪族
 ↓↑ 
 明治維新
 秋田田子爵家が宮内庁系図を求められ
 「安日長髄を先祖」とする一族の
 「秋田家の系図
 「孝元天皇開化天皇-大毘古命(大彦命)安倍将軍
  是、安倍姓元祖-建沼川別命安倍将軍」
 安日王   兄 
 長髄彦   弟 
 安国 安日後孫
 安東(はる)崇紙天皇御宇
 賞二軍功一賜二安倍姓一致(むね)東(はる)
 号二奥州日下将軍一・・・日下将軍?
 ↓↑ 
 秋田市子爵家の後見職
 秋田主税(ちから)は
 「当家は姓を賜って
  安倍を称した
  安倍姓の祖系を先に掲げ
  当家の年来の慣例
  これを宮内省
  秋田家の系図として納めた」
 大毘古命(大彦命)の末裔の安倍姓は
 奥州の安倍氏とは血脈の上ではまったく関係がない
 ・・・(浪岡具雄の伝承)?
 ↓↑
 秋田氏=本姓が安藤(安東)
 古代
 陸奥国俘囚の長であった
 安倍貞任の子孫・・・
 中世
 今の秋田県北部から青森県全域、北海道南部までを勢力圏
 津軽十三湊を本拠地
 とし貿易や水軍活動
 「蝦夷管領
 「日の本将軍」
 と称された・・・
 後、
 檜山安藤氏(下国家)
 と
 湊安藤氏(上国家)
 に分かれ、南部氏の勢力に押され
 出羽国に本拠地を移し
 天正年間の
 愛季に至り、両家が合体
 愛季は
 天正十七年(1589)
 居城を檜山(能代市)から
 湊(秋田市土崎)へ移し
 律令官職である
 「秋田城介」を名乗った
 以後
 秋田氏と称するが
 本姓の安倍
 従来の安藤(安東)姓が併用
 先祖に由来する
 伊駒姓も使用・・・
 ↓↑  
 長脛=イギリスの長脛王
    エドワード1世(Edward I)
    1239年6月17日~1307年7月7日・・・130777・・・?
    プランタジネット朝
    イングランド
    在位1272年11月17日~1307年7月7日
    渾名は
   「Longshanks(ロングシャンクス・長い足・長脛王
          身長が190cm)
    Hammer of the Scots(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ
    スコットランド人への鉄槌)」
    エドワード1世 (イングランド王) (Wikipedia
ーーーーー
 突厥=前身は
    阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)
    烏孫→阿史那→突厥

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    アシナ⇔アテネギリシア語: Αθήνα; Athina
        Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)
        ギリシャ共和国の首都
        アッティカ地方の古代からの都市
    アテナイ=Athēnai
    現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で
    アシネ=Athinai
    現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で
    アシナ=Athina
    アテネラテン語
    1970年代
    カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで
    公式名称は
    Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])
    カサレヴサ廃止以降
    Ἀθήνα=アシナ

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    女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より
            武装して鎧を纏った姿で出現
    と
    海神ポセイドン
    との争い
    ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で
    地を突き海水を湧き出させ
    アテナは
    オリーヴの木を生い立たせ
    国王ケクロプス、住民は
    オリーヴの木を択び
    アテナの名を都市の名とした
    アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都
    古代ギリシアの詩人
    ピンダロス
     ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで
    「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」

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ーーーーー
 突厥=前身は阿史那(アシナ=蘆名・芦名・葦名・足名)
    烏孫→阿史那→突厥

    アシナ⇔アテネギリシア語: Αθήνα; Athina
        Athinai・古代ギリシア語=Athēnai)
        ギリシャ共和国の首都
        アッティカ地方の古代からの都市
    アテナイ=Athēnai
    現代ギリシア語文語 (カサレブサ) で
    アシネ=Athinai
    現代ギリシア語口語 (ディモティキ) で
    アシナ=Athina
    アテネラテン語
    1970年代
    カサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで
    公式名称は
    Ἀθῆναι=アシネ([aˈθine])
    カサレヴサ廃止以降
    Ἀθήνα=アシナ
    女神アテナ・・・ゼウスの頭頂部より
            武装して鎧を纏った姿で出現
    と
    海神ポセイドン
    との争い
    ポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で
    地を突き海水を湧き出させ
    アテナは
    オリーヴの木を生い立たせ
    国王ケクロプス、住民は
    オリーヴの木を択び
    アテナの名を都市の名とした
    アテネ市=τὸ κλεινὸν ἄστυ=栄光の都
    古代ギリシアの詩人
    ピンダロス
     ἰοστέφανοι Ἀθᾶναι と呼んで
    「紫冠の都(en:City of the Violet Crown)」
ーーーーー
 蘆名氏(あしなし)
 桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族
 相模国
 蘆名(横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来
 「芦名氏」「葦名氏」
 「三浦芦名家」と表記される事もある
 相模
 蘆名氏
 と
 会津
 蘆名氏の二つの系統が存在
 通し字は
 前者は「為」
 後者は「盛」
 蘆名 盛氏(あしな もりうじ)
 戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名
 蘆名氏第十六代当主
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 突厥=トゥルク
    突厥の発祥
    西海(地中海)から中央アジアへ移住
    窮地を狼に救われた
    烏孫突厥
    烏孫の移動ルート
 『東日流外 三 郡 誌』
 (つがるそとさんぐんし)
 津軽地方支配の
 荒吐族(あらはばきぞく)
 その王
 阿倍氏⇒安東氏⇒秋田氏
 その都
 十三湊(とさみなと・青森県五所川原市十三湖の辺り)
 ↓↑
 「アラハバキ」=縄文の遮光器土偶・・・
 「ナガスネヒコ
  兄の
  安日彦(アビヒコ)とともに
  津軽に渡り
  津軽の土着民
  阿蘇辺族
  津保化族
  と併合し
  荒吐族となった」・・・
  和邇氏(海神族)の協力を経て北上し
  兄
  安日彦(アビヒコ)とともに
  青森県津軽(東日流=つがる)に落ち着いた
  大阪の十三(じゅうそう)や
  十三湊(とさみなと)
  という地名は
  アビヒコの弟
  トミヒコ(ナガスネヒコ)が語源
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 ・・・
 鎌倉時代後期
 豪族・安東氏(津軽安藤氏)の本拠地
 和人と蝦夷地のアイヌとの交易拠点
 文明年間(1469~87年間・戦国時代初期
      or戦国時代末期(16世紀末、17世紀初頭)・・・
 日本最古の海洋法規集『廻船式目』が
 「三津七湊」について
 七湊の一つとして
 「奥州津軽十三湊」記録
 後代
 朝鮮半島や中国などと交易・・・
 遺跡は東西に延びる土塁を境に
 北側には安東氏や家臣たちの館
 南側には町屋が整然と配置
 室町時代中期
 安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って
 夷島(蝦夷地)へ逃げ
 十三湊は衰微し
 和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は
 野辺地湊(野辺地湾に面する湊・上北郡野辺地町域)
 盛岡藩の北の門戸へ移った
 大浜=大濱(青森市油川地区)
 飛砂が堆積して水深が浅くなり
 港としての機能は低下
 16世紀後半から再び整備復興
 江戸時代
 岩木川を下ってきた米を
 十三湊から
 鯵ヶ沢湊(西津軽郡鰺ヶ沢町域)へと運ぶ
 「十三小廻し」が行われた
 ↓↑
 『東日流外三郡誌
 興国元年(1340年・南北朝時代初期)
 大海嘯(大津波)によって
 十三湊は壊滅的被害
 安東氏の政権は崩壊・・・
 発掘調査で津波の痕跡は無し?
 興国二年以後
 十三湊は重要な湊として数々の文献に記録
 1993年(平成五年)
 青森県古文書研究会が
 同書を偽書と断じた・・・?・・・偽書を作った理由はナニ?
 弘前大学の発掘調査により
 正確な年代こそ不詳ながら
 十三湊を襲った津波の痕跡であろう
 泥の堆積が2層以上確認
 津波の試練は幾度もあった・・・?
 ↓↑
 12世紀(平安後期)
 平安期の当地域周辺に見られた
 区画集落群の人為的廃絶
 在地豪族層による広域支配体制の確立
 鎌倉時代初頭
 津軽地方一帯は
 鎌倉幕府支配体制下
 古十三湖の周辺地域は幕府支配下
 「西浜」と呼ばれる
 13世紀初頭(鎌倉時代後期前葉)
 西浜で十三湊
 蝦夷沙汰職(蝦夷管領)を務めた
 安東氏(津軽安藤氏)の許で繁栄
 15世紀半ば(戦国時代初頭)
 安東氏(津軽安藤氏)が
 南部氏に敗れて支配地を失い
 夷島(えぞがしま。蝦夷地)へ逃亡
 十三湊は衰退
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 ・・・???・・・重複・・・