ろくろ(轆轤・絞車)・・・クビがナガイ・・・

 3078日目・文字霊日記
 ろくろ(轆轤・絞車)・・・クビがナガイ・・・
 ↓↑
 東京五輪・野球
 8月7日 22時00分
 金・日本
 銀・アメリ
 銅・ドミニカ共和国
 ↓↑
 8月7日 18:30 時点
 感染 101万8554人
 重症 1068人
 死亡 1万5288人
 退院 87万4178人
 ↓↑
 「選手村異聞」・・・
 4日 11時40分
 大会関係者 感染は322人
 ↓↑
 晴海の選手村で約700種類の食事
 ・・・K国・解体カニ弁当はドウナッタンダカ・・・
 ↓↑
 膳部(かしわで べ)・・・柏手・槲手・橿手
 膳臣(かしわで の おみ)
 炊事当番
 給食係
 食事をつかさどった職業部(品部)
 朝廷や皇族の宮で
 御食(みけ)の調理に従事
 ↓↑
 衛生班
 衛生係
 ↓↑
 掃除屋さん
 掃除当番
 ↓↑
 掃部寮(かもん   りょう
     かもん   づかさ
     かんもり のつかさ
     かにもり のつかさ)
 律令制宮内省に属する令外官
 『倭名抄』では
 「かにもりのつかさ」・・・かみもり=神に盛る
 訛るならドッチ・・・「な」or「ま」?
 「か」+「な・に・ぬ・ね・の」+「もり」
    +「も・み・む・め・も」
    +「ら・り・る・れ・ろ」
 ↓↑
 「か」+「ま・み・む・め・も」+「もり」
 ↓↑
 唐名は「守宮署」
 ↓↑
 掃部寮
 宮中行事の設営と殿中の清掃を行う
 宮中の施設管理・維持を行う主殿寮と職掌が重なり
 伴部の掃部が付属して清掃・設営にあたった
 大量の人員を必要とする官司に配属される
 駆使丁が80人配属され実務にあたっていた
 掃部寮
 弘仁十一年(820年)
 行政改革として
 職掌の同じ
 大蔵省掃部司
 と
 宮内省内掃部司
 が統合されて成立
 ↓↑
 四等官
 長官(かみ)=守・頭
 次官(すけ)=助・亮・輔・介・佐・弼・典
 判官(じょう)
 主典(さかん)
 ↓↑
 掃守 連(むらじ)
 の祖の
 天忍人命(あめのおしひとのみこと)
 が
 雄略天皇代に掃除の事を監したので
 掃守連の姓を与えられた《新撰姓氏録
 掃守氏
 律令制国家以前に
 宮殿の掃除・鋪設に奉仕した
 「伴造(とものみやつこ)」
 令制の
 掃部司・内掃部司・春宮坊主殿署の
 掃部や殿掃部は伴部
 掃守
 掃部
 「かむもり」
 と訓む
 《古語拾遺
 天忍人命が
 神武天皇の父の誕生の際
 海辺の産屋に供奉し
 カニを箒(ほうき)で払った
 「蟹守(かにもり)」と号した
 ↓↑
 部民
 官人の統率者として
 臣(おみ)
 連(むらじ)
 伴造(とものみやつこ)
 その下に実務担当の
 百八十部(ももあまりやそのとも)
 各職務に応じ
 生産・貢納に従う
 品部(しなべ=しなじな の とも)
 ↓↑
 伴
 畿内の中小豪族を任ずる
 殿部(とのもり)
   天皇の乗輿・宮殿の調度・灯火をつかさどる
 ↓↑
 水部(もいとり)
   供御の清水や氷をつかさどる
 ↓↑
 掃部(かにもり)
   殿内の掃除をつかさどる
 ↓↑
 門部(かどもり・かどべ)
   宮殿の諸門の守衛をつかさどる
 ↓↑
 蔵部(くらひと)
   内蔵・大蔵の出納をつかさどる
 ↓↑
 物 部(もののべ)
 佐伯部(さえきべ)
   軍事・警察・刑罰をつかさどる
 ↓↑
 部
 畿内やその周辺に居住する
 帰化氏族
 その他を任ずる
 錦織部(にしこり・にしごりべ)
    絹織物の生産に従う
 ↓↑
 衣縫部(きぬぬい・きぬぬいべ)
    衣服の縫製に従う
 ↓↑
 鍛冶部(かぬち・かぬちべ)
    鉄と兵器の生産に従う
 ↓↑
 陶作部(すえつくり・すえつくりべ)
    陶器の製作に従う
 ↓↑
 鞍作部(くらつくり・くらつくりべ)
    馬具の製作に従う
 ↓↑
 馬飼部(うまかい・うまかいべ)
    馬の飼育に従う
 ↓↑
 ・・・「日干」と「干合」する「大運」・「年運」・・・
 「肝(棺・桓)合)の時期・・・?
 ↓↑
 貞観二年六月十五日
 ~(628年7月21日)
 弘道元年十二月四日
  (683年12月27日)
       大運683年8月(55歳)乙丑 正財
                ↓↑
 戊┏子(壬 癸)偏印・傷官 死⇔癸丑 傷官・支合
 己┏未(丁乙己)印綬印綬冠帯⇔甲子 偏財・害
 庚 寅(戊丙甲)  ・偏財 絶⇔丁巳 正官・害
     偏印・偏官・偏財⇔配偶
 丁┗丑(癸辛己)正官・印綬 墓⇔丙午 偏官
 ↓↑
 壬┗午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔
   午未空亡    印綬
 ↓↑
 大運
 663年8月(35歳)癸亥 傷官
 ~
 673年8月(45歳)甲子 偏財
 ↓↑
 白村江海戦
 663年10月4日~10月5
 癸亥(戊甲壬)   傷官
 辛酉(庚 辛)   劫財
 戊申(戊壬庚)   偏印~己酉 印綬
 戊午(丙 丁)
 ↓↑
 則天武后
 武徳七年一月二十三日
  624年2月17日
 ~
 神龍元年十一月二十六日
   705年12月16日
 ↓↑
   655年10月13日
  立后
               乙┏卯・劫財
               丙┣戌・食神
               乙┗亥・劫財
               壬 午・偏印
      大運659年3月(35歳) 壬戌・偏印
         ↓↑
        669年3月(45歳) 辛酉・正官
         ↓↑
 甲┏申(己壬庚)比肩・偏官 絶⇔癸亥印綬 663年(白村江海戦)
  冲己正財
 丙┗寅(己丙甲)食神・比肩建禄⇔辛酉正官  10月
  三合丙食神
 甲┗午(丙 丁)  ・正財 死⇔戊申偏財  04日
 庚 午(丙 丁)偏官・正財 死⇔戊午偏財
   辰巳空亡 食神格・比肩建禄格
↓↑
      大運699年3月(75歳) 戊午偏財
 ↓↑

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 ↓↑
 高宗 (第三代唐皇帝)=李治
 の
 同名の
 「李治」=「金王朝」末の数学者
 字 仁卿
 號 敬斎
 真定府
 欒城県出身
 ↓↑
 1230年
 金王朝の進士
 「鈞州」・・・鈞(キン)の州・・・禹州市(ウシュウ-シ)
 「知州」
  禹州市(ウシュウ-シ)
 河南省
 許昌市
 に位置する県級市
 「伏牛山」山脈・・・伏(ふす)牛(うし)山(やま)
 と
 「豫東平原」・・・豫(預かる)東(ひがし)
          豫=予+象
            龴+乛+亅+象
            異体字「予」
            ヨ
            あらかじめ
            かねて
            前もって
            ためらう・ぐずぐずする
            よろこぶ・楽しむ
 ↓↑        ↓↑
          預=予+頁
            龴+乛+亅+頁
            異体字「予」
            ヨ
            あずかる
            あずける
            あらかじめ
            あらかじめ・かねて・前もって=予
            かかわる・関係する・参加する=与
            人にゆだねる・任せる
            人のものを保管する
 ↓↑        ↓↑
          序=广+予
            广+龴+乛+亅
            ジョ
            ついで
            はしがき
            まなびや
            ついで・順序・順番・次第
            まなびや・中国周代の学校
            はしがき・書物のはしがき
            書物の一番初めに書く短い文章
            いとぐち・物事の始め
            ついで
            本来の目的といっしょに
            別のことをおこなうことができる機会
            ジョ・曲の初めの部分・序文
 ↓↑        ↓↑
          予+α
          野・預・矛・抒・杼・舒・豫・魣・紓・芧
          忬・伃・妤・汿・沀・㐨・㘧・㶦・䂛・䦽
          㜿・預・矛・抒・杼・舒・豫・魣・紓・芧
          忬・伃・妤・汿・沀・㐨・㘧・㶦・䂛・䦽
     㜿
 ↓↑
 「豫東平原」
 の中間に位置
 市内に
 「潁河」が流れている
 中華文明の発祥の地
 市内
 北部の
 「具茨山脈」
 西部の
 「大鴻寨山脈」
 は黄帝と密接な関係のある
 有熊氏
 方嫘氏
 大鴻氏
 風后氏
 の活動地域

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 『荘氏』には
 禹州は
 黄帝
 顓頊
 嚳
 堯
 舜
 などの支配地
 「大禹」は
 禹州を中心に
 治水事業を行った功績により
 舜より
 夏伯に封じられ
 禹州
 を
 夏邑と改称し即位して
 夏朝を建てた
 瓦店遺跡が発掘され
 夏朝の王城跡に比定
 周代
 前408年
 「韓」
 が国都を
 平陽より
 陽翟に遷都
 現在の禹州に相当
 紀元前375年
 「韓」・・・・韓国
 が
 「鄭」・・・・鄭
 を滅ぼすと
 「新鄭」・・・新鄭
 に遷都
 5年後に再び陽翟に遷都
 以降
 元代に至るまで
 陽翟の名称が使用
 ↓↑
 明初
 陽翟郡は
 「鈞州」に編入
 1575年(万暦三年)
 「万暦帝」・・・・「萬の暦を綴る」・・・?
 の諱(翊鈞)を避け
 「禹州」と改称
 1913年(民国二年)
 州制の廃止により
 「禹県」が誕生
 1988年6月25日
 県級市に改編され
 禹州市とされた
  ↓↑
 「李治」=「金王朝」末の数学者
 は
 1232年
 モンゴル軍の侵入で
 鈞州・・・鈞=金+匀
        金+勻
        金+勹+冫
        金+勹+二
        金+勹+一
        キン
        はかる
        ひとしい
        ろくろ(轆轤・絞車)
        円形の陶磁器を成形するときに用いる台
        回転運動をする機械の総称
        滑車・神楽桟・絞車・ウインチ(winch)

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        奈良時代に木製の
      「百万塔」=孝謙天皇の勅願で
             木造三重の小塔
             上部中央には径1.5㎝ほどの孔をあけ
             黄麻紙に印刷した
            「陀羅尼(だらに)」を収めた
             恵美押勝(えみのおしかつ)の乱
             平定後、鎮護国家と滅罪のために造立
       「現存・陀羅尼」
        法隆寺蔵3962巻等に
       「根本・相輪・慈心印・六度
        の4種が残っている
       「修造・大功徳聚」
       『無垢浄光大陀羅経』で
       「根本・相輪・修造・自心(慈心)印」
        その後
       「大功徳聚・六波羅六度)」
        を説いている
  ↓↑     ↓↑
       「陀羅尼」の印刷物
       『無垢浄光大陀羅経』
       「則天武后」の
        704年(長安四年)
        后が譲位し
        国号が「唐」に戻った
        705年(神龍元年)
        漢訳された
        706年(神龍二年・聖徳王五年)
       「新羅」で同経が受容された
       「陀羅尼」
        770年に制作され
        世界最古の印刷物・・・
        1966年
        大韓民国慶州市の
       「仏国寺・釈迦塔」内の舎利容器に
        木版摺の
       『無垢浄光大陀羅経』
        が発見
        料紙は
       「新羅」製で
        唐で
        689年(載初元年)11月~8世紀初頭
       「則天文字」
        で印刷記録
       「仏国寺」は
        751年(景徳王十年)
        創建
       「釈迦塔」も同時期に建立
        それ以降、改築記録が無い為
        751年以前の制作・・・
        日本の
       「百万塔・陀羅尼」は
       「世界最古の印刷物」
        から
       「制作年が明確な現存最古の印刷物」
        となった・・・
 ↓↑       ↓↑
       「百万塔」
        が
       「轆轤びき」で大量に生産された
        重さの単位
        三十斤(周代、七・六キログラム)
        陶器を作るときに使う回転台
        同じ・同じにする・=均一
        おもり・はかる
        重さをはかるおもり
        重いもの・重要なもの
        尊敬の意を表すことば
 ↓↑
 鈞州
 が攻められ
 「李治」は
 脱出し・・・隠退
 後
 太原路崞州の桐川などに移住
 1251年
 真定路元氏県の
 封龍山に定住、研究生活
 「天元術」
   ・・・天元術=算木や算盤などの計算具を使う
        中国発祥の代数学
        算木には正数をあらわす赤い算木
            負数をあらわす黒い算木
        の2種類があり
        算盤と呼ばれる
        マス目を書いた紙や布の上に並べ
        その組み合わせで高次の代数方程式を解く
       「関孝和」は
       『算学啓蒙』を熟読し
       「天元術」を完全に理解
 を発展させ
 幾何などの他の数学分野に応用
 1248年
 『測円海鏡』12巻
 1259年
 『益古演段』3巻
 を著作
 「元好問」
 ら同じ隠遁文人らと交流
 漢詩を作
 「世祖(フビライ・ハーン)」
 は彼を召して一度は
 「翰林学士」に任じたが
 辞退
 88歳死去
 ↓↑
 唐王朝
 第三代皇帝
 在位期間
 貞観二十三年六月一日~弘道元年十二月四日
     649年7月15日~683年12月27日
 姓諱 李治
 字  為善
 小字 稚奴
 諡号 天皇 大聖 大弘孝 皇帝
 廟号 高宗
 生年 貞観二年六月十五日
     (628年7月21日)
 没年 弘道元年十二月四日
     (683年12月27日)
 父 太宗(第9子)
 母 文徳皇后 長孫氏
    鮮卑の拓跋を出自
    長孫無忌の妹の
    長孫皇后
 后妃 王皇后
    武皇后
 陵墓 乾陵
 年号
 永徽650年~655年
 顕慶656年~661年
 龍朔661年~663年
   663年=「白村江の海戦」
   天智天皇二年八月二十七日~八月二十八日
   663年10月4日~10月5日(ユリウス暦
 麟徳664年~665年
 乾封666年~668年
 総章668年~670年
 咸亨670年~674年
 上元674年~676年
 儀鳳676年~679年
 調露679年~680年
 永隆680年~681年
 開耀681年~682年
 永淳682年~683年
 弘道683年
 ↓↑
 李治書 李勣碑
 父太宗貞観十七年(643年)
 皇太子の
 「李 承乾」
 は
 魏王
 「李泰」
 をねたみ、武力で除こうとし
 皇太子を廃され
 「李泰」
 も排斥され
 承乾と泰の母
 「長孫」皇后の兄の
 「長孫無忌」の進言で
 「長孫」皇后の子
 第九子の
 「李治」
 が代わって皇太子に立てられ
 太宗の死後、皇帝に即位
 太宗に溺愛された異母兄の
 呉王
 「李恪(隋の煬帝の外孫)」
 を擁立する動きが見られ
 「長孫無忌」
 は
 「呉王」
 に謀反の嫌疑をかけ自殺に追い込み
 一族を処刑
 ↓↑
 654年
 高宗が
 「万年宮」
 に行幸したとき
 洪水が起こって
 夜間に大水が
 玄武門を襲い
 宿衛たちはみな逃げ散り
 これに
 「薛仁貴」
 は怒って門に登って大声で叫び
 宮中に警告し
 高宗は危機を逃れた
 高宗は
 「薛仁貴」
 忠臣と讃えた
 ↓↑
 663年
 天智天皇二年八月二十七日~八月二十八日
 663年10月4日~10月5日(ユリウス暦
 白村江の戦い
 倭・百済遺民連合軍に勝利
 666年
 泰山にて
 新羅
 倭王
 他を従え封禅
 668年
 新羅と共同(唐・新羅の同盟)で
 隋以来敵対関係にあった
 高句麗を滅亡させる(唐の高句麗出兵)
 安東都護府を設置
 唐の最大版図を獲得
 後
 新羅
 唐との同盟を破棄し
 676年
 朝鮮半島全土を統一(唐・新羅戦争)
 朝鮮半島経営を放棄
 漢民族朝鮮半島支配は
 「明王朝」成立まで途絶
 ↓↑
 外戚の長孫氏が皇后である
 武氏の一派によって追放され
 「武后」
 が政治の実権を掌握し
 高宗は武后廃立に失敗
 丹薬による
 中毒で
 眼病を患い
 実権は完全に武后により掌握
 683年死去
 ↓↑
 宗室
 后妃
 王皇后:のちに廃位される
 武皇后
 蕭淑妃
 徐婕妤(唐太宗賢妃徐恵の妹)
 劉宮人
 鄭宮人、楊宮人
 韓国夫人 武順(武則天の姉妹)
 魏国夫人 賀蘭氏(武則天の姪、武順の娘)
 ↓↑
 男子
 燕王 李忠 (母は劉宮人)
 原王 李孝 (母は鄭宮人)
 沢王 李上金 (母は楊宮人)
 許王 李素節(母は蕭淑妃)
 代王 李弘(義宗孝敬皇帝)(母は武皇后)
 潞王 李賢(章懐太子)(母は武皇后)
 中宗(第4代皇帝)李顕(母は武皇后)
 睿宗(第5代皇帝)李旦(母は武皇后)
 女子
 義陽公主 李下玉(母は蕭淑妃)
 高安公主 (母は蕭淑妃)
 安定思公主(母は武皇后)
 太平公主(母は武皇后)
 ↓↑
 原文は
 by フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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