「宝覚真空禅師」って、ダレ?・・・「雪村 友梅」・・・?

 3056日目・文字霊日記
 オトづれ・・・オトぎれ・・・おんドリ・・・音・於菟・猫
 Twin(対)の人と家畜と獣と・・・
 羊・山羊・馬・牛・豚・猪・狗・狼・熊
 猫・獅子・虎・狐・鶏・・・
 おとづれ・・・おとぎれ・・・おとめ・・・おっとゥ・・・オンどり・・・
 オトがズレる・・・ヅレる・・・擦れる・攣れる・吊れる・釣れる・・・

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 ↓↑
 宝覚真空禅師録(1346)
 乾 豊州 蒋山・・・?
 興 聖 万寿禅寺 語録・・・?
 「不三必当レ門懸二艾虎一、一斑先見睡二於一」
 壒嚢鈔(1445‐46)
 ↓↑
 五「猫を乙(ヲト)と云は何の故ぞ。
   虎を於菟(ヲト)と云也。
   然に猫の姿
   并に毛の色
   虎に似る故に
   世俗
   猫を呼て
   於菟(ヲト)と云へば
   猫 則 喜と云へり」
   出典 精選版 日本国語大辞典
   「コトバンク
   https://kotobank.jp/word/%E6%96%BC%E8%8F%9F-220867
 ↓↑
 鸑鷟=ガクサク
 鸑=獄+鳥
 鷟=族+鳥
 想像上の鳥・鳳凰(ホウオウ)・鳳凰の子
 ↓↑
 雪村 友梅(せっそん ゆうばい)
 正応三年(1290年)
 ~
 貞和二年十二月二日(1347年1月14日)
 鎌倉時代末~南北朝時代
 臨済宗の禅僧
 長安
 南山
 翠微寺の住職となり
 元の朝廷から
 「宝覚真空禅師」
 の号を特賜
  ↓↑
 「宝覚真空禅師録(1346)」
  乾豊州
 「蒋山興聖万寿禅寺語録」
 「這裏点開金鸑鷟、這裏敲出玉麒麟
 ↓↑
 艾虎(ガイコ)
 中国の南方の風習
 端午の節句ヨモギ(艾)で
 虎の形を作り
 頭にいただいたり
 戸の上にかけたりして邪気を払うこと
 ↓↑
 宝覚真空禅師録(1346)
 乾 豊州
 蒋山興聖万寿禅寺語録
 「不三必当レ門懸二艾虎一
  一斑先見睡二於一」
 〔乾淳歳時記‐端午
 ↓↑
 父は越後の土豪・一宮氏(源姓)
 母は信濃須田氏(藤姓)
 正応三年(1290年)
 越後白鳥で誕生
 幼少時
 鎌倉の
 建長寺
 「一山一寧」
 に侍童として仕える
 元朝からの
 帰化僧である
 「一寧」から唐語を教えられた・・・
 比叡山戒壇院で受戒
 京都
 建仁寺に入門
 ↓↑
 徳治二年(1307年)
 十八歳
 元國へ渡航
 2年ほど大都(北京)周辺を見て回り
 元叟行端
 虚谷希陵
 東嶼徳海
 晦機元煕
 叔平□隆
 などに参ずる
 日-元関係の悪化で
 日本留学僧は
 間諜(スパイ)と見なされ
 「霅州の獄」に繋がれ
 「叔平」も雪村を匿った罪で逮捕、獄死
 処刑されかけたが
 「無学祖元」の「臨剣頌」を唱え
 処刑を免れた
 死一等を免ぜられて
 長安に流され
 3年後
 四川の
 成都に改めて流謫
 10年を過ごす
 大赦により許され
 長安に戻り3年を過ごす
 長安南山
 翠微寺の住職となり
 元の朝廷から
 「宝覚真空禅師」の号を特賜
 ↓↑
 元の
 天暦二年(日本は元徳元年、1329年)五月
 商船に便乗して博多へ帰朝
 日本へ来朝の
 明極楚俊
 竺仙梵僊
 らや
 天岸慧広
 物外可什
 らと同船
 後鎌倉へ戻り
 翌年には師一山の塔である
 建長寺
 玉雲庵
 の塔主となった
 ↓↑
 元徳二年(1331年)
 信濃
 諏訪神社の神官
 「金刺満貞」
 に招かれ、信濃
 「神為頼」
 に請われて
 徳雲寺開山となる
 翌年
 京都の
 「小串範秀」
 に招かれ
 嵯峨の
 「西禅寺」住職
 建武元年(1334年)
 豊後
 大友氏に招かれ
 府内の
 「万寿寺」に転じ、三年住し
 京都へ上り
 「栂尾」に隠棲
 播磨守護
 「赤松円心」が
 「小串範秀」の推薦を受け
 円心が建立した
 法雲寺の開山として招かれ
 千種川の清流を
 幽囚されていた蜀(成都)の
 錦江になぞらえ
 山号金華山とした
 ↓↑
 暦応三年(1340年)
 足利尊氏
   直義
 兄弟は、京都の
 万寿寺の住職として
 雪村を招請
 雪村は病気(中風)により再三固辞
 円心の願いに折れ
 康永二年(1343年)八月
 「万寿寺」の住持となったが
 1年で辞し
 翌年には
 東山の清住庵に移り住む
 中風で摂津有馬温泉で療養
 ↓↑
 貞和元年(1345年)二月
 朝廷によって
 「建仁寺」の住持を命じられ、就任
 翌年十一月
 法兄の
 「石梁仁恭」
 の十三回忌法会の導師を務めるが
 「楞厳呪」第五段の焼香三拝に至って
 右半身不随となる(脳卒中
 十二月二日
 遺偈を左手で書こうとしたが
 うまく字にならず
 怒って筆を投げつけ
 周囲が墨だらけになる中
 示寂 享年57
 ↓↑
 五山文学の最盛期の中枢となった僧
 詩文集
 在元時代の詩偈を編んだ
 『岷峨集』
 帰朝後の詩文・語録集
 『宝覚真空禅師語録』
 ↓↑
 by 『ウィキペディアWikipedia)』
ー↓↑ーーー
 「鬬伯比」が
 「鄖子」の娘と密通し
 「子文(於菟)」が生まれた
 娘は
 「子文(於菟)」を
 雲夢沢(洞庭湖北方の沼沢地)
  ・・・洞庭湖⇔道程処・同定拠・童貞児・・・?
 の中に捨てたが
 狩りに出た
 「鄖子」が
 虎に育てられた「子文(於菟)」を見つけ
 娘が育てることを許した・・・
 ↓↑
 紀元前664年
 令尹に抜擢され
 楚の財政を私財で救って困窮
 成王は
 「子文(於菟)」のため
 俸禄を増やそうとしたが
 そのたびに下野し
 取り消すと戻ってきた
 「子文(於菟)」が登朝するたびに
 肉の干物一束
 朝飯一籠
 が贈られ
 この習慣はのちに
 楚の令尹に受け継がれていった・・・

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 ↓↑
 弟の
 「鬬子良」の子の
 「鬬椒(子越)」
 が生まれた際に
 「必ずこの子を殺しなさい
  姿は熊や虎のようで
  声は山犬や狼のようである
  きっと我々
  若敖氏に害をなすだろう」
 と忠告したが
 「子良」は聞き入れなかった
 「子文(於菟)」が
 臨終の際に一族を集め
 「子越が政治を執るようになったら
  楚を離れて難を逃れるようにせよ」
 と遺言
 「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」
 と泣きながら
 「若敖」氏の滅亡を予言
 ↓↑
 「子文(於菟)」の死後
 「子越(鬬椒)」は予言どおり
 「荘王」に叛いて
 「若敖」氏を滅亡させた
 「荘王」は
 「あの子文(於菟)の家系が途絶えたとあっては
  私は人に善行を勧めることができなくなる」
 と言って
 国外にいて乱に加担しなかった一族の
 「鬬克黄」
 に跡を継がせた・・・
 ↓↑
 於菟=「とら(虎)」or「ねこ(猫・Cat)」の異名
             ↓↑
           12支の場所の「東」=卯⇔猫
           子=ねずみ(鼠・rat・mouse)=北
                くち=口=mouth・oral
                     申す・上海
 鬬 㝅於菟(トウ コクオト)
 中国春秋時代
 楚の公族
 宰相(令尹)
 姓 羋
 氏 鬬
 諱 㝅於菟(㝅=乳・於菟=虎)
     菟=うさぎ=兔・莵・兎・[m:596]・[m:330]
 字 子文
 楚の君主の
 「若敖(ジャクゴウ)」
 の子の
 鬬伯比の子
 清廉潔白
 楚の賢相
 ↓↑  ↓↑
    若敖(ジャクゴウ?~紀元前764年頃
    在位:紀元前790年頃~紀元前764年頃)
    春秋時代初期の
    楚の君主
    姓 羋・・・「羊」の鳴く様・咩(ビ)
           羋=バ・マ・ビ・ミ・メ
    氏 熊・・・くま・ユウ
    諱 儀・・・ギ・儀式・礼儀・儀仗・御辞儀
    熊咢の子・・・ユウガク・・・遊学・謂覚?
           熊の顎
    死去後
   「若敖」の諡号が贈られた
   「若」は埋葬された地名
   「敖」は酋長
 ↓↑
 鬬伯比が
 「鄖子」の娘と密通し
 「子文(於菟)」が生まれた
 娘は
 「子文(於菟)」を
 雲夢沢(洞庭湖北方の沼沢地)
  ・・・洞庭湖⇔道程処・同定拠・童貞児・・・?
 の中に捨てたが
 狩りに出た
 「鄖子」が
 虎に育てられた「子文(於菟)」を見つけ
 娘が育てることを許した・・・
 ↓↑
 紀元前664年
 令尹に抜擢され
 楚の財政を私財で救って困窮
 成王は
 「子文(於菟)」のため
 俸禄を増やそうとしたが
 そのたびに下野し
 取り消すと戻ってきた
 「子文(於菟)」が登朝するたびに
 肉の干物一束
 朝飯一籠
 が贈られ
 この習慣はのちに
 楚の令尹に受け継がれていった・・・
 ↓↑
 弟の
 「鬬子良」の子の
 「鬬椒(子越)」
 が生まれた際に
 「必ずこの子を殺しなさい
  姿は熊や虎のようで
  声は山犬や狼のようである
  きっと我々
  若敖氏に害をなすだろう」
 と忠告したが
 「子良」は聞き入れなかった
 「子文(於菟)」が
 臨終の際に一族を集め
 「子越が政治を執るようになったら
  楚を離れて難を逃れるようにせよ」
 と遺言
 「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」
 と泣きながら
 「若敖」氏の滅亡を予言
 ↓↑
 「子文(於菟)」の死後
 「子越(鬬椒)」は予言どおり
 「荘王」に叛いて
 「若敖」氏を滅亡させた
 「荘王」は
 「あの子文(於菟)の家系が途絶えたとあっては
  私は人に善行を勧めることができなくなる」
 と言って
 国外にいて乱に加担しなかった一族の
 「鬬克黄」
 に跡を継がせた・・・
 ↓↑
 鬬=鬥+斲
   丨+王+ +王+亅++斤

   斲=斵・・・断
     タク
     きる・けずる・削り取る
     斧・斧できる

 斲=𠁁+斤
   異体字「㓸・𣂪・𣂡・𣃃・𣃂・𣃆
       斵・𣃋・𣃏・𦘣・𨮕・𨯴
       斫」
 斵=卬+亞+斤
   𠂎+刀+亞+斤
   斲=斵
   斵=斲
 ↓↑
 刃物などを用い、とんとんと叩くようにして
 削る、刻(きざ)む、彫(ほ)る
 同「剢」
 卯集下:斤部:𣂡
 與剢斵劃𦘣通
 𧿧=足+斤
   タク
   跅𨂫=口上止龰足丿𠂆一𠂋T斤=𧿧
   勝手気儘なさま
 斵=斧・斷・斤・斨・新・斬・斸・斮・斫・斵・斲
 ↓↑
 夫代司殺者殺、是謂代大匠斵(タク)
 夫代大匠斵者、希有不傷其手矣
 夫れ殺を司る者に代わりて殺す
 是れ大匠に代わりて斵(き)ると謂う
 ↓↑
 若敖氏
 若敖族
 若敖氏之族
 楚国の
 芈姓家族
 祖先为楚国国君熊仪
 若敖氏即是以他的谥号若敖为族称
 在其内部又分鬬氏
 和成氏
 两个支系
 若敖族の構成員
 鬬伯比
 鬬廉、鬬祁、鬬勃
 鬬谷 於菟(子文)
 ↓↑
 鬬般
 及
 成得臣
 成大心
 成嘉等人
 在
 楚武王
 至
 楚庄王
 時代担任军政要职
 经过
 楚庄王九年
 若敖族之乱后
 若敖族の地位迅速下降
 但其后
 裔仍
 不時出現
 于
 春秋末期
 和戦国の
 楚国政坛
ーーーーー
 ・・・???・・・ナマエのヘン・・・

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    楚の君主
    姓 羋・・・「羊」の鳴く様・咩(ビ)
           羋=バ・マ・ビ・ミ・メ
 ↓↑
 羋 戎(ビ ジュウ)
 紀元前332年~紀元前262年
 戦国時代末期
 楚の公族
 秦の政治家
 秦の昭襄王の生母
 宣太后(恵文君夫人)の弟
 ↓↑
 秦の昭襄王に
 「華陽君」の号を与えられた
 姉の宣太后
 異父同母兄弟の
 「魏冄(ギゼン)」・・・巍然・偽善?
 と合わせて三貴
 後に
 「魏冄(ギゼン)」
 甥の
 「涇陽君(公子巿)」
 「高陵君(公子悝)」
 と合わせて四貴
 秦国内で王と並ぶ権力を持った[
 ↓↑
 羋戎は
 楚にいた頃に罪を犯し
 東周へ逃亡
 楚の
 懐王二十二年(紀元前307年)
 秦の
 武王
 死去後
 「宣太后」の異父同母弟
 「魏冄(ギゼン)」
 の支持を受けた
 「公子稷(昭襄王)」
 が
 「昭襄王」となり秦王を継承
 その際
 「宣太后」の招きで
 秦に入り
 左丞相として
 「魏冄」と共に
 秦の朝政を執り仕切った
 ↓↑
 紀元前298年
 「孟嘗君」主導の
 斉・韓・魏
 の三国合従軍が
 函谷関に攻め寄せた際
 秦軍の総司令官として
 斉の
 「匡章」
 率いる攻撃から
 函谷関を守った
 ↓↑
 紀元前265年
 「范雎」
 の奏上で
 「宣太后」が
 「昭襄王」
 によって廃位され
 「羋戎」ら四貴も罷免
 関中から追放
 紀元前262年
 「羋戎」
 死亡
 「昭襄王」
 は実権を握り
 秦は六国を圧倒した
 ーーーーー
 ・・・???・・・バビブベボ
          まみむめも・・・
 羋=卝+丨+二
   卝+丨+一+一

 蝆=虫+芈
   虫+羋
   虫+卝+二+丨
   虫+卝+一+丨
   古同「蛘」

 蝆=螳螂
   螳蜋谓之髦
   或谓之虰或谓之蝆蝆
   蛀食米谷的黑色小虫
   蛄䗐・强蝆
   晋・郭璞
   注:「今米谷中蠹小黑虫是也。建平人呼为蝆子」

 蝃蝥=蜘蛛の别名
 蝃=螮
 蝥=mao・昆虫・腿细長
   鞘翅上黄黑色斑纹
   成虫危害农作
ーーーーー
 ・・・???・・・右目の眼圧が上がって顔面右側半分が、
 痛い(>_<)・・・異体・ゐたい・イタイ・・・
ーーーーー
 ???・・・
  ↓↑
 「古事記字源のページの表紙・音楽・動画」
https://haa98940.wixsite.com/mysite
  ↓↑  ↓↑
 「古事記字源のページ・2016/12~」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
  ↓↑  ↓↑
 本日の「干支歴」
http://meisiki.bake-neko.net/
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 旧「HP」の移転先
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