「宇文化求の探究」・・・?
  宇宙の分断・・・?
  卯(う)=眞ッ二つに叩き割る・・・
  料理で「生卵(なまたまご)」の「殻(から)」を割る時
  円柱の木の幹の年輪を斧で真ッ二つ叩き割って「薪(まき)」にする時
  林檎の果実を眞ッ二つにナイフ(knife)で切り分ける時
  花弁(瓣)は「💛」の形

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 ↓↑
 宇文 泰(ウブン タイ)
 or
 宇 文泰(ウ ブンタイ)・・・?
 正始二年(505年)
 ~
 恭帝三年十月四日(556年11月21日)
 北魏西魏の政治家
 「字 黒獺(黒泰)」・・・国体・語句替?
 鮮卑
 北周の基礎を築いた
 帝位・・・綴意・綴異・態意・定意
 ↓↑    貞意
 ↓↑     ↓↑ 
     「貞観 政要」
     (ジョウガン セイヨウ
      ヂョウガン セイヨウ)
     唐代
     「呉兢」が編纂
     太宗の言行録
     「貞観」は
     在位の年号
     「政要」は「政治の要諦」
     全十巻四十篇
     「太宗(李世民)」・・・唐の第二代皇帝
     高祖「李淵」の次男
     626年
     「玄武門の変」で
     皇太子
     「李建成」
     を倒して皇帝即位
     在位の年号
     「政要」は「政治の要諦」
     全十巻四十篇
    在位
    武徳九年八月九日
    626年9月4日
    ~
    貞観二十三年五月二十六日
    649年7月10日

    生年
    開皇十七年十二月十六日
    (598年1月28日)
    ~
    貞観二十三年五月二十六日
    (649年7月10日)
        大運646年4月(48歳)戊申比肩
     丁 巳(戊庚丙)印綬・偏印建禄⇔己酉劫財
    ┏癸┏丑(癸辛己)正財・劫財 養⇔辛未傷官
    ┗戊┣午(丙 丁)  ・印綬帝旺⇔己巳劫財
     壬┗子(壬 癸)偏財・正財 胎⇔甲子偏官
       子丑空亡
     
     姓・諱 李世民
     諡号  文武 大聖 大広孝 皇帝
     廟号  太宗

     父   高祖
     母   太穆皇后 竇氏
     后妃  長孫皇后
     陵墓  昭陵
     年号  貞観627年~649年

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 ↓↑
 「宇文 泰」
 祖先は
 匈奴
 「宇文部」の族長・・・「宇文」の部・・・
 ↓↑ 
 南北朝時代
 華北を支配の
 北朝
 鮮卑人の支配王朝
 隋も北朝の系統
 ↓↑ 
 北魏末年
 「六鎮の乱」
 父の
 「宇文 肱」・・・肱(ひじ・コウ)
 と共に
 「鮮于修礼」・・・鮮于の修礼⇔撰巻の修礼?
 に従い挙兵したが
 「爾 朱栄」・・・字 守衛・秀英・集英?
 によって鎮圧され
 「爾朱栄」
 の部将の
 「賀抜岳」・・・賀を抜く岳(嶽父・楽譜)?
 に従った
 ↓↑ 
 530年
 北魏
 「孝荘帝」
 によって
 「爾朱 栄」が殺害
 「爾朱」氏の実権縮小、滅亡
 「高歓」
 が丞相の地位に就く
 北魏
 「孝武帝」は
 「賀抜岳」
 を用いて
 「高歓」を牽制
 「賀抜岳」が
 「関西大行台」となると
 その左丞「領台府司馬」を務め
 軍政の議決に参与
 ↓↑ 
 534年
 「賀抜岳」が殺害され
 「宇文 泰」
 は総帥となり
 「孝武帝
 に上表し
 「高歓」
 の専横を除いて
 皇室を扶翼することを誓い
 「孝武帝」も詔勅を以って
 「宇文泰」を
 大都督・雍州刺史・尚書
 に任じた
 「高歓」は
 東魏を建国
 535年
 「宇文泰」は
 都督中外諸軍事・大行台となり
 安定公に封ぜられ
 548年
 太師・大冢宰
 ↓↑ 
 北魏の実力者になった
 「宇文 泰」だが
 「孝武帝」に不満
 534年12月
 「宇文 泰」は
 「孝武帝」を殺害
 帝の孫で
 「京兆王 元愉」の嫡子
 「元宝炬(文帝)」を擁立
 西魏成立
 実権は
 「宇文 泰」
 が掌握し
 「李弼」
 「独孤信」
 らの北人を軍中より抜擢し
 「蘇綽」
 らの漢人儒士を任用して
 農業を振興
 均田制を復活
 租税安定させた
 公文書の書式を定め
 朱と墨を用いた
 「財政文書」書式の確立
 「戸籍」に基づく課役制度
 「六条詔書」により
 地方官僚の倫理規定を定めた
 ↓↑ 
 軍事
 府兵制を確立
 兵士の確保を容易にした
 制度は隋・唐に継承
 形式上
 「鮮卑の八部制」を残したが
 軍を「十二軍」に再編し
 「八柱国」に統率させ
 府兵制で軍事力増強
 北魏
 「孝文帝」が奨励した
 鮮卑の漢化制度を取り止め
 鮮卑固有の文化に戻すために
 鮮卑貴族の
 「楊氏(隋)」を
 普六茹氏
 「李氏(唐)」を
 大野氏など
 鮮卑姓に復姓させる政策を定めた
 ↓↑ 
 文化的にも儒学を重んじ
 捕虜の漢人儒家
 「王褒」
 「宗懍」
 らを厚遇
 周礼によって
 官制改革を実施
 北周の六官制を実施
 古代の
 周の制度を
 北周の制度として奨励・・・
 ↓↑ 
 西魏の執政
 二十余年
 府兵制など
 後の北周の基礎を築いた

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 ↓↑ 
 妻子
 妻妾
 正室  文皇后 元氏
 側室  宣皇后 叱奴氏・夫人姚氏
         達歩干氏・王氏・張女畢
 男子
 明帝  宇文毓
 宋献公 宇文震
 孝閔帝 宇文覚
 武帝  宇文邕
 斉煬王 宇文憲
 衛剌王 宇文直
 趙僭王 宇文招
 譙孝王 宇文倹
 陳惑王 宇文純
 越野王 宇文盛
 代奰王 宇文達
 冀康王 宇文通
 滕聞王 宇文逌
 女子
 宇文皇后(文帝に嫁)
 襄陽公主(竇毅に嫁・太穆竇皇后の生母)
 義安公主(李暉に嫁)
 順陽公主(楊瓚に嫁)
 平原公主(于翼に嫁)
 永富公主(史寧 の子の史雄に嫁)
 公主  (賀抜岳の子の賀抜緯に嫁)
 公主  (若干恵の子の若干鳳に嫁)
 徳広公主(趙貴 の子の趙永国に嫁)
 西河公主(劉亮 の子の劉昶に嫁)
 義帰公主(李基に嫁)
 宜都公主(梁禦 の子の梁睿に嫁)
 子孫
 宇文泰に13人の男子
 内部の権力闘争によって
 直系家族まで連座して処刑
 北周末期から滅亡前後
 外戚
 「楊堅(宇文泰の孫で
     第四代皇帝の
     宣帝に娘の
     楊麗華を嫁がせていた)」
 が断行した
 北周皇族の粛清によって
 宇文泰直系の男系男子は根絶やし
 王朝滅亡後
 「宇文泰」の孫
 宣帝が
 「楊堅」の娘
 「楊麗華」との間に儲けていた
 「宇文 娥英」が生き残り
 「李崇」の子
 「李敏」との間に
 「李静訓」
 という女子を儲けていたが
 「李静訓」は九歳で夭折
 「宇文 娥英」
 も外叔父の
 「煬帝」によって賜死
 宣帝と
 「楊麗華」の直系子孫は絶えた
 ↓↑ 
 著名子孫
 唐の第二代皇帝
 「李世民
 生母
 「太穆竇皇后」が
 「宇文泰」の外孫で
 「宇文泰」と「李世民」は
 曾祖父と曾孫の関係
 皇后の夫
 「李淵」は
 「李世民」を含めて4男1女を儲けた
 5人の子孫は宇文泰の血筋
 唐の皇帝の座は
 「李世民
 の子孫が代々継承し
 唐最後の皇帝
 「哀帝
 まで北周皇族の血
 「李世民」の妃の1人
 「長孫皇后」
 は母親から傍系ながら北斉皇族の血
 「長孫皇后」は
 北斉の開祖
 「高歓」の従弟
 「高岳」の曾孫
 宿敵同士の家系が
 唐の「李家」を通じて合体、縁戚関係
 「李世民」の跡を継いだのは
 「長孫皇后」の三男
 「李治(高宗)」
 で、北周北斉の血を引く皇帝が誕生
 「高宗」の子孫が907年の
 唐滅亡まで帝位を継承
 「北斉」皇族の血筋も存続
 初代
 「李淵」から最後の皇帝
 「哀帝」まで
 歴代皇帝は
 北周北斉
 歴代皇帝達と皇族と
 隋の歴代皇帝達と
 皇族と縁戚・血縁関係
 ↓↑ 
 「太穆竇皇后」
 の兄弟姉妹の家系も
 孫。曾孫の代まで存続
 ↓↑ 
 隋
 国号(王朝名)
 建業者
 高祖
 「楊堅」の北周時代の爵号の
 「隨(随)」国公に因む
 「楊堅
 が隨州の刺史に任じられたのが
 隋朝の名称の由来
 ↓↑ 
 隨(国)
 地名で「湖北省随州市」に名を遺す
 唐時代まで
 「隨=阝+辶+左+月」の略字として
 辵部(辶)を省いた
 「隋=阝+左+月」
 と相互に通用
 「隋=阝+ナ+エ+月」から
      「エ」を省いた
 「陏=阝+有」の字も用いられ
 中唐以降に
 「隨=阝+辶+左+月」
 と
 「隋=阝+左+月」
 とは区別され
       地 名は「隨(随)」
       王朝名は「隋」
 と固定・・・
 隋=供物の肉の余り
 高祖楊堅が改字で
 王朝の命運を縮めた・・・
 ↓↑ 
 568年
 「楊忠」死去
 「楊堅」が大将軍・随国公
 北周武帝
 「北斉」を滅ぼし
 南の
 「陳」を滅ぼす前段階で
 「突厥」への遠征を企図
 578年崩御
 「武帝」の跡を継いだ
 「宣帝」は
 5人の皇后
 1人が楊堅の長女の
 「楊麗華」
 で
 「楊麗華」は
 「宣帝」の側室
 「朱満月」が生んだ太子の
 「宇文闡(静帝)」を育てた
 「宣帝」は
 在位8カ月で退位し
 「静帝」に譲位
 自らは
 「天元皇帝」を名乗って政務を放棄し
 「静帝」の丞相
 「楊堅」への声望が高まった
 ↓↑ 
 580年
 「宣帝」崩御
 「楊堅」は「静帝」の摂政として全権掌握
 武川鎮軍閥内の有力者たち
 「尉遅迥」
 などが
 「楊堅」に対して反乱
 関中地域以外のすべてで反乱
 「楊堅」は各個撃破
 北周内における
 覇権を握った
 同年末
 随国公から
 「随王」へと進み
 北周の兵権を与えられ
 581年
 「静帝」より禅譲を受け
 「隋」を建国
 ↓↑ 
 「楊堅
 諡
 「文帝」
 ↓↑ 
 南北統一
 当時
 南朝に「陳」
 北に「突厥
 584年
 「文帝」は長城を越え
 「突厥」を攻撃
 突厥内部に介入し
 東西に分裂させた
 ↓↑ 
 淮河と長江を結ぶ
 「邗溝(カンコウ)」
 開削、補給路を確保
 南朝梁から分裂し
 北朝の傀儡政権となっていた
 「後梁」を併合
 農繁期
 軍を南下させる気配を見せて
 陳軍に常に
 長江沿岸に大軍を出動させ
 間諜を使って民家に放火
 皇帝が宣帝の子の
 「陳叔宝」で愚帝
 陳は内部崩壊を深めた
 ↓↑ 
 588年
 「文帝」
 陳への遠征軍出動
 総指揮官が文帝の次男の
 「楊広(煬帝)」
 51万8000の大軍
 589年
 陳の都
 「建康」陥落
 陳の皇帝
 「陳叔宝」
 は井戸に隠れているところを逮捕
 西晋滅亡以来
 273年
 黄巾の乱以来
 405年
 にわたった分裂時代が終焉
 ↓↑ 
 『周礼』
 と
 「鮮卑」回帰政策の
 北周の路線を改め
 北斉の制度を参照しつつ改革
 581年
 「開皇律令」制定
 律令
 晒し首・車折などの残酷な刑罰を廃し
 律を簡素化
 「唐律令」は
 「開皇律令」を踏襲
 官制改革
 最高機関として
 尚書省
 門下省
 内史省(唐の中書省
 尚書省の下に
 文書行政機関の
 六部
 人事担当の吏部
 財政担当の度支部
 儀礼担当の礼部
 軍政担当の兵部
 法務担当の都官部
 土木担当の工部
 の6つを設置
 その下の実務機関
 九寺
 監察機関
 御史台
 設置
 「州・郡・県」の区分を止め
 「州・県」の2段階に再編
 「科挙(正式には貢挙)」の実行
 「科挙」は
 地方豪族の世襲的任官でなく
 実力試験の結果で官吏の任用を決定
 官吏任命権を
 皇帝が握った
 これらが
 唐朝274年の礎
 文帝の治世をその元号を取って
 「開皇の治」と呼ぶ
 ↓↑ 
 文帝の皇后の
 「独孤伽羅」
 は文帝との間には6人の子
 長男の
 「楊勇」が皇太子に立てられていたが
 派手好み女好きで
 文帝、皇后の両者から嫌われ
 次男の
 「楊広」が皇太子に立てられた
 ↓↑ 
 604年
 文帝は病に倒れ
 この間に
 「楊広」の陰謀を知った文帝は
 廃太子の長男
 「楊勇」を再び太子にしようとしたが
 文帝崩御
 「楊広」が右庶子
 「張衡」を唆し殺害・・・
 ↓↑ 
 「楊広=煬帝
 「煬帝」は即位し
 廃太子の「楊勇」を殺害
 弟の漢王
 「楊諒」の反乱も抑え
 兄弟たちを策謀によって殺害
 大土木事業を推し進め完成させた
 東都洛陽城の建設
 大運河の延長工事
 河北から江南へと繋げた
 大土木工事で河南諸郡の
 100万余の男女が徴発
 大運河工事に
 「煬帝」自身の行幸
 首都に対する輸出入
 軍隊の輸送などに使われ
 民間への便益は極めて薄かった・・・?
 突厥に備える
 長城の修築
 610年1月
 洛陽で諸国の朝貢使節を招いて豪勢接待
 ↓↑  
 隋の高句麗遠征
 隋の大陸統一により
 「高句麗」が「突厥」と結んで隋に対抗
 隋は100万に及ぶ大軍で
 3度にわたって攻撃
 ↓↑ 
 611年
 煬帝高句麗遠征を3度
 612年
 高句麗遠征
 113万人の兵士が徴兵
 「来護児」
 「宇文述」
 らが指揮官として高句麗を攻撃
 1回目の遠征大敗撤退
 613年
 煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻撃
 614年
 高句麗側が
 煬帝に恭順
 煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され
 4回目の遠征を計画
 ↓↑ 
 「煬帝」の側近
 「楊素」の息子
 「楊玄感」
 が黎陽で反乱し洛陽を攻撃
 煬帝が派遣した隋軍により鎮圧
 「楊玄感」は敗死
 中国全土に反乱波及
 ↓↑ 
 突厥は北方で暴れ
 「煬帝」は自ら軍を率いて北方に向かうも
 「突厥」軍に敗退し洛陽に撤退
 616年
 反乱軍は各地で群雄として割拠
 「楊玄感」の参謀
 「李密(北周八柱国の李弼の孫
     関隴貴族集団の上位の1人
     楊玄感の敗死後
     洛口倉
     大食料集積基地を手に入れ
     多数の民衆を集めた)」
 と激しく争っていた
 西域出身
 隋の将軍を務めていた
 「王世充」が
 高句麗遠征軍から脱走
 同じ脱走兵たちを引き連れて
 河北に勢力を張った
 「竇建徳」
 て隋の太原留守であった
 「李淵(唐の高祖)」
 などが独立勢力となった
 ↓↑ 
 反乱の中
 隋軍では対処し切れず
 「煬帝」は江都に行幸し留まり
 反乱鎮圧の指揮を執った
 北方の反乱は激しく
 「李淵
 により首都「大興城」が陥落
 「李淵」は首都に不在の
 「煬帝」の退位を宣言
 「煬帝」を太上皇とし
 孫の
 「楊侑(恭帝侑)」を即位させた
 ↓↑ 
 重臣
 「宇文 化及」
 「煬帝」を見限り、反煬帝勢力を糾合し
 618年
 謀反
 「煬帝」を縊殺
 「宇文 化及」
 は「煬帝」の
 甥(煬帝の弟の秦孝王楊俊の子)の
 秦王
 「楊浩」を皇帝に擁立
 江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとした
 王世充・李淵・李密
 らの勢力に阻まれて
 大興城を恢復はできなかった
 「宇文化及」は皇帝
 「楊浩」を毒殺
 国号を「許」として自ら皇帝に即位
 天寿二年(619年)
 「竇建徳」との決戦に大敗殺害された
 東都洛陽の留守
 煬帝の孫の
 越王
 「楊侗」は
 大業十四年(618年)
 「煬帝」の死を受け
 「王世充」
 「元文都」
 「皇甫無逸」
 などに擁立されて皇帝に即位
 「恭帝侗(皇泰主)」
 619年
 「王世充」は
 「恭帝侗」に禅譲を迫り
 自ら皇帝に即位し
 鄭を立国
 ↓↑ 
 「李淵」は
 「恭帝侑」から禅譲を受け
 「唐」を建国
 ↓↑ 
 「煬帝の煬」の文字
 「天に逆らい、民を虐げる」という意味
 「李淵」が贈った諡
 ↓↑ 
 「煬帝」の孫の一人
 「楊政道(斉王楊暕の遺腹の子)」
 唯一生き延びた
 突厥
 「処羅可汗」の庇護を受けたが
 630年
 突厥滅亡で
 「楊政道」は唐に帰順、官職を賜った
 「楊政道」には
 「楊崇礼(隆礼)」という子がおり
 煬帝の曾孫
 「楊崇礼」の子女が
 「楊慎余
  楊慎矜
  楊慎名」の三兄弟で
 「煬帝の玄孫」
 次男の「楊慎矜」が
 747年
 隋の復興を企ていると讒言され自殺
 妻子は嶺南に流刑
 「楊慎余」
 「楊慎名」
 も自殺
 「煬帝」の皇女が唐の第2代皇帝
 「李世民」の妃の1人
 「李恪・李愔」の2男を儲けた
 「李恪」の子孫は
 昆孫の代
 「李愔」の子孫は
 孫の代まで存続
 女系で隋皇族の血筋は保持
 ↓↑ 
 「律令
 基本法典として定められた
 律(刑法)
 令(行政規定)
 格(追加規定)
 式(施行規定)
 に基づいて国家運営する体制
 刑法、衛禁、服務、戸婚
 均田制
 府兵制
 などが定められている
 「隋」は
 政治的には「北周」を継承
 律令制度は「梁」を基礎とした
      「北斉」のものを模範とした
 「北斉」の『河清律令』が基
 583年
 「高熲」
 「蘇威」
 の貢献が大きい
 「開皇律令」を規定
 「律令」は
 皇帝の代替わりごとに修正公布
 「煬帝」即位で
 「大業律令」を定めた
 ↓↑ 
 唐代の律令官制の
 中央行政機関である
 「三省六部」は
 「開皇律令」で既に完成
 三省(中書省門下省尚書省
 六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)
 九寺(鴻臚寺など)
 一台(御史台)
 「隋」では
 「刑部」を「都官」
 「戸部」を「度支」
 とするなど官名が一部異なる
 ↓↑ 
 地方官制
 州・郡・県
 の三級制から
 州・県
 の二級制(州県制)へ改革
 地方長官が任命していた
 州県官を
 中央からの派遣に改めて
 兵権を取り上げ
 門閥貴族を抑圧
 中央集権化を進めた
 ↓↑ 
 科挙制度
 科目別の試験制度
 587年
 試験開始
 及第者には
 高等官となる資格が与えられ
 「科挙」の起源となった
 ↓↑ 
 突厥
 嫁いだ
 隋の宗室の娘
 「義成公主」が
 君主の妃となった
 ↓↑ 
 隋皇帝
 文帝(楊堅・在位581年~604年)
 ↓↑ 
 煬帝(楊広・在位604年~618年)
 文帝の子
 ↓↑ 
 「恭帝侑(楊侑・在位617年~618年)」
 煬帝の孫
 「李淵」に擁立
 「恭帝侗(楊侗・在位618年~619年)」
 煬帝の孫、「楊侑」の兄
 「王世充」に擁立
 秦王
 ↓↑ 
 「楊浩(在位618年)
 煬帝の弟の「秦孝王」
 「楊俊」の子
 「宇文化及」に擁立
 ↓↑ 
 581年2月
 静帝から禅譲
 隋王朝を開いた
 静帝を初め
 北周の皇族
 宇文氏一門を皆殺しにした
                 604年8月13日
          大運596年6月(54歳)己丑偏官
  辛┏  酉(庚 辛)偏印・偏印 病⇔甲子傷官
  乙┃┏┏未(丁乙己)食神・偏官 墓⇔壬申劫財
 ┏癸┗┃┗丑(癸辛己)  ・偏官冠帯⇔丁未偏財
 ┗戊 ┗ 午(丙 丁)正官・偏官 絶⇔丙午正財
      寅卯空亡
 ↓↑ 
 斉
 秦によって最後に滅ぼされた国
 創始者
 周の文王・武王の国師
 軍師の
 「太公望呂尚(姜尚)」
 ↓↑ 
 姜姓 呂氏
    斉氏
 媯姓 田氏
 ↓↑ 
 紀元前1046年~紀元前221年
 周朝の諸侯国に端を発し
 西周春秋時代・戦国時代
 にわたって
 中国の東方に存在した国家
 国号は単に「斉」であるが
 「田氏代斉」以前の
 「姜氏の斉」
 と、以後の
 「田氏の斉」を区別するために
 前者を「姜斉」
 後者を「田斉」
 ↓↑ 
 北斉(ホクセイ・550年~577年)
 南北朝時代
 高氏によって建国
 国号
 春秋戦国時代の斉
     南朝の斉
 などと区別するために
     北斉・高斉
 と呼ぶ

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 ↓↑ 
 R・ガルトネル
 文久三年(1863)
 徳川幕府
 箱館奉行の許可を得
 西洋農法による開墾を開始
 明治維新
 明治新政府
 箱館府
 七重村(七飯町)付近の土地
 300万坪(約1000ヘクタール)
 を
 99年間借用契約
 明治元年十一月
 「榎本武揚
 箱館を占領
 ガルトネルは
 榎本軍
 と引き続き
 99年間の
 蝦夷地七重村開墾条約を結ぶ
 明治二年五月
 「榎本軍の降伏」
 とともに引き返してきた
 清水谷・箱館府知事との交渉で
 ガルトネルは
 蝦夷島政府と結んだ契約を
 ほとんどそのまま認めさせていた
ーーーー
 ・・・???・・・