キキの前に「一髪(一カミ)なし」・・・危機切迫、危機目前に遵法なし

 3050日目・文字霊日記
  耶律楚材?・・・邪理通 素材・粗材・・・?
  ↓↑
 「耶律 大石」・・・なぜか、大石・・・
           仇討ち御法度(ごはっと)=禁止・・・?
  ↓↑
 「邪(よこしま)な里の律(法・掟)の大の石」・・・?
 「大石 内蔵助 良雄」
 の長男
 「大石 主税 良金(享年十六歳)」
 ↓↑
 次男
 「吉千代→吉之進」
 母方
 「理玖(りく)」の
 石束家一門が
 松平伊賀守領分の
 「但州」美含郡竹野谷の
 順谷村井山
 円通寺
 「大休」和尚の許で出家させ
 「祖練(錬)元快」と名乗り
 宝永六年(1709)三月一日
 十九歳で死亡
 ↓↑
 「大石 内蔵助 良雄」
 の妻
 「理玖(りく)」は
 現在の豊岡市出身
  京極家の家老
 石束 宇右衛門(毎公)
 と
 佐々成政の子孫
 快楽院の長女で
 討ち入り前に
 大石と離婚後
 芸州(広島藩
 浅野家より終生百石を得
 生き残った子供は
 浅野家で厚遇された
 大石 大三郎(三男)
 大石 るり(次女)
 ↓↑ 
  ・・・「邪(よこしま)の里の彳の聿に通う大の石」・・・?
  ・・・「邪(よこしま)の里の彳の聿に通う壹の人の丆の口」・・・?
  ・・・「丆=表面・面・外面・外見」・・・「口」・・・
  ・・・「寺坂 信行(吉右衛門・きちえもん)筆記」
            ・・・足軽・戒名 節岩了貞信士・・・?
            土佐藩
            山内家の分家
            麻布(あざぶ)・・・安詮院(あぜぶ)?
            山内家
            第三代
            山内豊清(主膳)に仕えて
            士籍を得た
      主人 吉田 忠左衛門
         富森 助右衛門
      が一行から別れて
      仙石
      伯耆
      の屋敷へ行った」・・・?
  ↓↑
  耶=耳+阝=邪=牙+阝
    ヤ
    か
    疑問・反語・詠嘆の助字
    父親のこと
    よこしま=邪
    梵語(ボンゴ)の音訳用字・・・意義も採った・・・?
 ↓↑
 耶(か)
 耶蘇(やそ)・・・耶蘇教=切支丹=天主教=基督教=邪教
 有耶無耶(うやむや)
 曖昧・有りや無しや
 干将莫耶(カンショウバクヤ)
 古代中国の名剣
 干将=春秋時代の呉の国の刀工の名
 莫邪=刀工の妻の名
 干将が炉に妻の髪と爪を入れ
 二振りの名剣が完成させ
 剣に「干将・莫邪」という名づけて献上
 是耶非耶(ぜかひか)
 物事の善か悪かの判断の迷い
 疑問や反語の「耶」+「是非」
 「所謂 天道 是耶 非耶」
 天の定める道は正しいのかどうかは・・・?
 ↓↑
 律=彳+聿(肀)
 ↓↑彳+肀+二
   彳+肀+一+一
   彳+ヨ(⺕・彐=彑)+肀+一+一
   一丨扌ケキ扌
   ↓↑
   辻道
   十字路の象形
      「行=彳( 廴・チャク・テキ)+亍(チョク)」の
        「彳= 廴=佇む・たたずむ・緩めの歩行」
        「彳」=左足・左歩
        「亍」=右足・右歩
        「彳亍」(テキチョク・チーチュー)」
        「躑躅(つつじ・踯躅・ジージュー)」
        「躊躇(チュウチョ)」
         ・・・鼠の鳴き声の著・鼠=子=イエス=移鼠
           『使徒信行・使徒言行録』
         文章の組み立て
         キアスムス構造(X字構造・交差法)
         キアスムス構成の中心は
        「エルサレム
         「イエスの復活(蘇生・蘇我)」
        「使徒行伝・使徒行録・使徒信行禄」
        「「新約聖書
          早い時期に
          ラテン語、シリア語、コプト語
          などに翻訳使徒信行録
         『マタイ福音書
          マテュー (仏: Matthieu)
          マシュー (英: Matthew)
          マテウス (独: Matthaus)
          マトフェイ (露: Матфей)
         「マテオ(伊: Matteo) 」
          ・・・マテオ・リッチ=Matteo Ricc
             1552年10月6日~1610年5月11日
             イタリア人イエズス会
             カトリック教会司祭
             利瑪竇(Li Mǎdou ・り まとう)
             明の万暦帝に置時計などを献じ
             北京に定住し
             カトリック布教
            「幾何学原本」
            「坤輿万国全図
             など西洋学術を紹介
          Matthew=マチュウ=マタイ
                   =巻替=交他意=万碓
                   =真鯛=眞他意=又意・股異
         「馬太・瑪他意⇔瑪瑙(めのう)」
                 ・・・メノウ乳鉢・乳棒
                 乳鉢(にゅうばち・mortar)
                 に固体を入れ
                 乳棒(にゅうぼう・pestle)
                 でスり
                 粉砕または混和するために
                 使用
         「馬太・瑪太」
          の
          オリジナルはアラム語
          ヘブライ書も
          ヘブライ語版がオリジナルであった・・・」
        「アラム語というかヘブライ語でマタイの書が
         ジョージ・ハワード教授の本で出版
         シェム・トブ・ベン・イサーク・イブン・シャプルト
         1385年
         「試みを経た石(エヴェン・ボーハン)」
         に収録
         ギリシャ語本文の元になった原文(写本)」
         by ウィキペディアWikipedia
   ↓↑
   手=聿(肀)・弖・氐
     肀+二
     肀める(おさめる)・肀べる(のべる)・肀(ふで)
   ↓↑
   丮=ケキ・もつ。手に持つ。手でにぎり持つ
     両手にものを持つ形・握持
   ↓↑
   丮=‡+⺄・・・𠨭
     二+丨+⺄
     ケキ・キャク
     𠃨・𢩦=乙⺄二十キ=丮
     しっかりと(右)手に持つ
     手に取りしっかりと握る
     同「𡙕=執」・・・
      「丮=丸」
     逆(左手)=𠨭
     𠂡=ホウ・フウ・フ
       かぜ・かざ=風・风凮凬𠙊凨𠙈𠙗飌
       𠘨二十キ=𠂡
     異体字「𠃨・𢩦・𩰊」・・・
     丮の左右相対する形=鬥(とう)
              =鬭(闘)・鬨(とき)
     鼫=鼠+石
       臼+𠂡+丆+口
       臼+一+丿+口
       セキ むささび・リス科の動物
       けら・昆虫の名
       𠂡=一+丿+㆐+二+𠄌
   ↓↑
   リツ
   リチ
   のっとる
   のり
   決まり・法則・規則
   のっとる・決まりに従う・手本にする
   音階・音楽の調子
   漢詩詩型の一
   仏教の僧侶の守るべきいましめ
   律(のっと)る
   律(のり)
   一律(いちりつ)
   黄金律(おうごんりつ)
   戒律(かいりつ)
   規律
   急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう
   喼喼如律令(きゅうきゅうじょりつりょう)
   軍律(ぐんりつ)
   憲律(けんりつ)国家の規則・国家の掟
   ↓↑
   三寸不律(さんずんふりつ)
   長さの短い筆
   「三寸」は長さが短い
   「不律」は筆の別名
   千篇一律(せんぺんいちりつ)
   「千編一律」
   二律背反(にりつはいはん)
   雷同一律(らいどういちりつ)
   周りの意見にむやみに同調すること
   雷の轟きで物が共振
   ↓↑
   必要の前に法律なし
   必要に迫られた緊急事態の時は
   法律など気にしていられない
   律儀は阿呆の唐名
   律義者の子沢山
   呂律が回らない
   「呂律」は和音階の呂律
   言葉の調子
   ↓↑
   肀=コ+十
     イチ
     イツ
     おさめる
     のべる
     ふで
     筆・書く
     とうとう・ついに
     自分から・自ら
     修める・述べる
     すばやい・すばやく走る
     共に・従う
   ⺻=肀+一

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 西遼(カラ・キタイ)・・・加羅(~)・記(紀)他意(替・碓・・・?
 初代皇帝(グル・ハン)
 太祖
 「耶律 阿保機」の末子(第4子)の
 「耶律 牙里果」の7世の孫
 「遼」が滅亡する際
 契丹人を引き連れて西へ敗走
 モンゴル高原西部
 新疆ウイグル自治区
 カザフスタン東部
 マー・ワラー・アンナフル
 までの広大な地域を領有
 故地奪回を目指し東征するが挫折
 ↓↑
 『遼史』
 天慶五年(1115年)
 科挙
 状元となって
 翰林院の
 「翰林応奉」に就いた
 他に
 「耶律 蒲魯」
 の契丹人による進士
 遼朝では
 契丹人は支配階級で
 科挙の受験は禁止されていたので・・・
 推挙によって
 北面官の
 大林牙院(南面官の翰林院に当たる)
 に進み上級の林牙に就いた・・・
 ↓↑
 泰州(黒竜江省泰来県)
 祥州(吉林省農安県)
 二州刺史
 遼興軍(河北省盧竜県)
 節度使を歴任
 ↓↑
 保大二年(1122年)
 「女真人」の
 「金」から攻撃を受け
 皇帝
 「天祚帝」
 は中京から西の雲中の陰山に逃亡
 「耶律 大石」
 は宰相の
 「李 処温」
 とともに南京(燕京・北京)で
 第7代興宗の孫の
 「耶律 涅里(天祚帝の従父)」
 を擁立し
 「天錫帝」として
 「北遼」を建国
 天錫帝は
 大石を軍事統帥に任じた
 大石は
 宋
 金
 2国と戦うことは困難と考え
 宋との和平を望んだ

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 「燕雲十六州」・・・10世紀
 ↓↑遼が後晋から割譲され支配した16州
   朔州・寰州・応州・雲州・蔚州・新州・武州・儒州
   媯州・檀州・順州・幽州・薊州・涿州・瀛州・莫州
   624年(武徳七年)
   唐に
   高開道が滅ぼされ
   隋の
   涿郡
   懐戎県の地に
   北燕州が設置
   634年(貞観八年)
   北燕州は
  「媯州」・・・媯=女+為
   と改称
   702年(長安二年)
   懐戎県の県治を
   清夷軍城に移転
   742年(天宝元年)
  「媯州」は
  「媯川郡」と改称
   758年(乾元元年)
  「媯川郡」は
  「媯州」の称にもどされ
   河北道に属し
   懐戎・媯川
   の2県を管轄
   936年(天福元年)
   後晋の建国で
  「媯州」は
  「燕雲十六州」の一つとして
  「契丹」に割譲
  938年(会同元年)
  「契丹」により
  「媯州」は
  「可汗州」と改称し
  「清平軍」が置かれた
  「可汗州」は
   奉聖州に属し
  「ふところらいけん」をかんかつ
   北宋
  「媯州」は
  「雲中府路」に属すが統治の実態はなかった
   1122年(天輔六年)
   金が可汗州を奪い
   翌年
  「可汗州」は廃止
   1195年(明昌六年)
  「懐来県」は
  「媯川県」と改称され
   徳興府に属した
 ↓↑
 宋は海上の盟に則り
 「燕雲十六州」
 を攻撃し
 「童貫
 (ドウカン)」
  ワラベのツラヌキ・・・「川上 梟帥(たける
  倭  男具那命(ヤマトオグナのミコト)古事記
  日本 童男尊(ヤマトオグナのミコト)日本書紀
  の貫き・・・
  日本 建(たける=日本童男=倭男具那=大和武)
  は
  熊襲 梟帥(たける
  の尻を刺し貫いた
  長吉 熊襲(くまそ)

 「童貫」
 の監督下で15万の大軍を動員し攻撃したが
 「耶律 大石」
 はこれを
 「白溝河」
  ・・・白い溝
 (みぞ・漊・渠)のカのワ?
      船渠=Dock
         =ドック(蘭語 dok)
          Dog=ドッグ=犬・狗・戌 
       渠=氵+巨+木
         キョ
         みぞ・おおきい
         かしら・かれ・なんぞ
         みぞ・ほりわり
          溝渠(コウキョ)
         おおきい・広い・かしら
         渠魁(キョカイ)
         渠帥(キョスイ)
 において打破
 北遼は
 宋へ和平を持ち掛けたが
 「童貫」
 は拒絶
 「李処温」・・・処温・・・温泉?
 の宋との内通が露見
 「回離保」・・・回(まわし)離保(保っをハナし)?
 は
 「李処温」
 とその子の
 「李奭」・・・奭=大+皕
             一+人+百+百
             セキ・シャク・カク・キャク
             さかん・いかるさま・怒る
                 猪狩 様子
                 入鹿 相貌?
              異体字「𠁗=十+一+人+百+百」
 を捕らえてこれを処刑
 天錫帝が崩御
 北遼は
 「秦王」・・・秦の王?
 「耶律 定(天祚帝の五男で皇太子)」を立て
 天錫帝の未亡人の
 「徳妃蕭普賢女」が摂政
 20万の宋軍は再び侵攻
 宋は将軍の
 「劉 延慶」
 は「燕京=北京」を奇襲
 「耶律 大石」
 は市街戦で宋軍を撃破
  ↓↑
 「童貫」
 は
 北遼攻撃は困難と判断し
 金に
 燕京攻撃を依頼
 「阿骨打」・・・阿の骨を打つ?
 (アクダ)   金の初代皇帝(在位1115年1月28日(1月1日)
                ~ 1123年9月19日(8月28日))
         女真族
         完顔部(ワンヤン部)の族長
        「完顔阿骨打・都勃極烈」
 は受理し、北方より三路から
 燕京を攻撃
 「耶律 大石」は
 居庸関での迎撃に失敗し
 金軍に捕らえられたが
 「阿骨打」は
 「耶律 大石」らを厚遇・・・
 保大三年(1123年)
 大石は秦王
 「耶律 定」
 「徳妃蕭普賢女」
 を奉じて
 「天祚帝」の元へと逃亡
 ↓↑
 保大四年(1124年)
 金軍が迫ると
 「耶律 大石」
 は200人ほどの
 契丹部の重装騎兵を引き連れ
 外蒙古
 遼の北西部
 可敦城に逃れ
 モンゴル高原一帯の
 十八部の王を招集して自立
 1130年
 金は
 遼の降臣の
 「耶律 余睹」
 を派遣して攻撃
 「耶律 大石」
 はこれと交戦したが突然撤退
 西へ移動して
 アルタイ山脈西部に入り
 ビシュバリクに向かった
 ビシュバリクを首都とする
 天山ウイグル王国の
 「ビルゲ可汗」
 は
 「耶律 大石」
 ら契丹王侯を迎え
 大量の軍馬やラクダなどの贈物を贈り
 大石ら契丹王家に臣従することを承認
 1132年
 「葉密立」・・・葉を密に立る?
 (エミル・新疆ウイグル自治区ドルビルジン県)
 で即位し
 「天祐 皇帝」と名乗り
 元号
 「延慶」
 とし
 「西遼」を建国
 イスラーム史書では
 西遼=カラ・キタイ=「黒い契丹
 大石以降の君主たちを
 グル・ハン
 葛爾汗=「全てのハン・全世界のハン」
 ・・・「葛(かづら)の
     爾(に・ジ)の
     汗(あせ・カン)」・・・?
 延慶三年(1134年)
 ウイグル
 テュルク系の
 「カルルク」・・・・「輕・珂瑠」「留矩・留句」
 部族による反乱発生
 大石(徳宗)は出兵鎮圧
 北辺を西遼の直轄地と定め
 ベラサグン(八剌沙袞・キルギストクマク付近)
 へと遷都し
 「クズオルド」・・・「屑・国栖・框・葛」の
           「於留都(譯・土・渡)」?
 と改めた
 「徳宗」
 は
 天山山脈の南北のシルクロードルートを押さえ
 東西に分裂していた
 カラハン朝の軍を
 康国四年(1137年)撃破
 東部を領域に治めた
 ベラサグンは
 東カラハン朝の
 イブラーヒーム2世
 によって治められていたが
 カルルク部族
 カンクリ部族
 などへの支配力は低下
 諸部族から掠奪や反乱に見舞われ
 徳宗
 契丹軍の侵攻を許した
 イブラーヒーム2世
 徳宗に使者を派遣し
 首都に招き
 政権移譲を伝えた
 東カラハン朝の君主は
 「ハン」の称号を剥奪され
 「イリグ・トルカン」
 という称号を与えられた・・・
 ↓↑
 徳宗
 北西の
 カンクリ
 キルギス
 諸部族を征服
 天山、パミール高原を超えた
 フェルガナ地方まで支配
 康国四年(1137年)
 マー・ワラー・アンナフル
 領有の
 西カラハン朝
 第20代君主
 マフムード2世は臣属
 康国八年(1141年)
 ホラズム・シャー朝
 アトスズ
 毎年金貨3千ディーナールを納めるよう誓約させ
 両王朝を臣従させた
 ↓↑
 康国八年(1141年)
 徳宗は
 カラハン朝を支援していた
 セルジューク朝
 第8代スルタン・サンジャル
 の率いる大軍を
 サマルカンド近郊
 カトワーン平原で撃破
 中央アジアに覇を唱えた
 サンジャルは自らの封土であった
 ホラーサーンを拠点として
 セルジューク朝君主による
 イラン全土の統一的な支配を目論んでいたが
 この敗北によって計画は頓挫し
 結果、間接支配ながらも
 中央アジア
 イスラーム政権は異教徒の傘下となり
 テュルクメン諸集団の統制が不可能になった
 12世紀後半
 テュルクメン諸集団による
 イラン各地での騒乱
 セルジューク朝諸王家の崩壊
 ↓↑
 故地奪還
 徳宗
 は金に対する
 7万の親征軍を出発させる行軍中に崩御
 享年58
 徳宗の没後
 幼少の
 「耶律 夷列(仁宗)」が継ぎ
 大石の后妃の
 「蕭塔 不煙」・・・蕭塔に不煙?
 が称制となった
ー↓↑ーーー
 「耶律 楚材」・・・邪の律、楚を材とする?
 遼(契丹
 太祖
 「耶律 阿保機」
 の長男の
 東丹国
 懐王(義宗・天譲帝)
 「耶律 突欲(トツヨク)」8世の孫
 遼の宗族出身
 代々中国化、漢化した家系
 遼の滅亡後
 金の官僚
 祖父は
 「耶律 聿魯」
 父
 「耶律 履」
 金制で
 宰相級の
 尚書右丞
 の
 三男(末子)
 ↓↑
 科挙を免ぜられ
 代替の試験を首席で通過し
 尚書省の下級官僚に任官
 モンゴルが金に侵攻
 首都の中都(北京)で
 左右司員外郎
 1214年
 中都が陥落し捕虜
 中国の天文と卜占に通じてい
 チンギス・カン
 に召し出され
 中国語担当の書記官(ビチクチ)となり
 ハーンの側近に仕えた
 1219年
 遠征でもチンギスの本隊に随行
 カン側近の占星術師として働き
 その体験の詩作を
 『西遊録』に収めた・・・西遊記・・・石猿?
 ↓↑
 チンギス死後
 後継者で
 「クリルタイ
 が紛糾
 チンギスの遺志を尊重して
 オゴデイを立てることを説き
 オゴデイの即位に貢献・・・
 ↓↑
 オゴデイ即位
 書記として仕え
 中書省の書記機構の幹部となり
 北中国の金の旧領の統治に携わった
 楚材は捕虜たちを
 「万戸」・・・萬乎・漫湖・曼子・蔓子・慢子?
 と呼ばれる集団に分け
 3つの万戸を置き
 各万戸ごとに
 農民・職人
 職業に大別した戸籍をつくり
 戸単位に課税する中国式税制を導入
 ↓↑
 1234年
 干支  甲午
     天福二年
     文暦元年十一月五日
     皇紀1894年・・・1+8+9+4=22・・・弐拾弐
 中国
 南宋  端平元年
 金   天興三年(旧1月10日まで)
 モンゴル帝国 太宗(オゴデイ)六年
 朝鮮
 高麗 高宗二十一年
    檀紀3567年・・・3+5+6+7=21・・・弐拾壱

 モンゴルと南宋の連合軍、金を滅ぼす
 誕生
 阿塔海、元の政治家、軍人(~1289年)
 アバカ、イルハン朝の第2代ハン(~1282年)
 吉川経高、鎌倉時代の武士(~1319年)
 二条教良、鎌倉時代の公卿(~没年未詳)
 ベアトリス・ド・プロヴァンス
 シチリア王カルロ1世の最初の妃(~1267年)
 ↓↑
 1206年・丙寅・元久三年、建永元年四月二十七日
 テムジンが大ハーン
 チンギス・カンを称す
 ↓↑
 1260年・庚申・正元二年、文応元年四月十三日
        皇紀1920年
     南宋 景定元年
     モンゴル帝国 中統元年五月十九日
     高麗 元宗元年
 クビライが大ハーン即位
 ↓↑
 1368年・戊申・南朝 正平二十三年
     北朝 貞治七年・応安元年二月十八日
        皇紀2028年
     元  至正二十八年
     明  洪武元年
     夏  開熙二年
     高麗 恭愍王十七年
 朱元璋
 明により中国の地を追われる
 ↓↑
 1635年・乙亥・寛永十二年
        皇紀2295年
     明 崇禎八年
       高迎祥 興武元年
     後金 天聡九年
     李氏朝鮮 仁祖十三年
 モンゴル=蒙古
 後金により滅亡
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 ・・・???・・・
 1234年
 モンゴルが金を最終的に滅ぼし
 北中国を併合
 中国式に全土を
 ハーン直轄領にするために
 モンゴル貴族に
 征服した領土を分与することに反対
 儒学を家業とする家を
 「儒戸」に指定する制度を考案
 税を軽減するかわりに
 儒教と祭祀を行わせ、実務官僚層の供給源とした
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 オゴデイの晩年
 西アジア式に人を単位とする
 人頭税制度を
 中国に導入することを説く
 中央アジア出身の
 ムスリムイスラム教徒)財務官僚層が台頭
 行政干渉
 楚材らの派と対立
 楚材らは信任を失っていった
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 1241年
 オゴデイ死没後
 発言力をもたず
 3年後に死没
 詩集『湛然居士集』
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 鄭氏(蘇氏の説)が産んだ末子の
 「耶律鋳」が跡を継いだ
 その嫡子の
 「耶律希亮」
 と共にクビライに仕え
 中書左丞相に累進
 楚材は再評価され
 太師、上柱国を贈られ
 広寧王に追封
 文正と諡された
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 ・・・???・・・邪(よこしま)の里の都の座居・・・