安倍川氾濫・・・こいねがわくは、どうか平穏であってほしい・・・
3033日目・文字霊日記
マグダレーナ(Magdalena)・・・高知・狡知・後置
常呂(ところ)町・土佐?
常呂(トコロ)郡
常呂(トコロ)町
土佐(トサ)
↓↑
常=龸+吊
龸=小 +冖=しょう・しょうがしら
常=尚+巾
尚=なおがしら
ショウ
くわ(える)
たっと(ぶ)
とうと(ぶ)
なお
たっとぶ・とうとぶ
敬い重んじる
くわえる・付け加える
たかい・たかくする
こいねがう・希望する
「なお」
「その上・さらにその上」の意
「なお」
「やはり・依然として」の意
「こいねがわくは」
「~を願う・どうか~であってほしい」の意
⺌+冖+口+巾=小さいワは口の巾
口巾を憚る?
憚=忄+單
忄+口+口+田+十
忄+口+口+日+十
はばかる・おそれつつしむ・かしこまる
気がねする・遠慮する
病む・疲れる・病気になる
はばかり・恐縮する気持ち・気がね・遠慮
小+冖+口+巾=小さいワの国(口)の巾(はば・頭巾)?
丨+丷(八・ハ)+冖+口+巾
ジョウ
つね・いつまでも変わることがない
つね・いつも・ふだん
とき・常盤(ときわ)御前
とこ・常夏・常世
あたりまえ・なみ・普通
はた・日月や竜などを描いた天子の旗
長さの単位・一常は、尋(八尺)の二倍
とこ・名詞などの上につけて
「いつまでも変わらない」
「永遠に変わらない」
などの意を表わす接頭語
ひたち=常陸・常盤・常盤
呂=背骨・音楽の十二律音階の六段
↓↑
登呂(とろ・静岡県静岡市駿河区登呂五丁目
北緯34度57分22秒
東経138度24分29秒)
「安倍」川・・・阿部川餅・・・
の分流の洪水時
押し流された土砂が堆積し
自然形成の堤防の上に造られている
村は、北東~南西の方向に広がる
微高地を利用して
住居12棟
高床倉庫2棟が建っており
水田は、その南につくられている
↓↑
登呂
遺跡ではない
「常 呂
(ところ)」ですか
尋常・常陸
常世⇔少彦名の神
少 名毘古那 神
(すくなびこなのかみ)
『古事記』
↓↑
少彦名命
(すくなひこなのみこと)
『日本書紀』
↓↑
天 少 彦 根 命
(あまのすくなひこねのみこと)
『先代旧事本紀』
↓↑
須久奈比古命
『出雲国風土記』
↓↑
小 比古尼 命
(すくなひこねのみこと)
『播磨国風土記』
他に
須久那美迦微
少日子根
などと表記
↓↑
『古事記』では
神 産巣日 神
(かみむすびのかみ)の子
『日本書紀』では
高 皇産霊 神
(たかみむすびのかみ)の子
↓↑
垂仁天皇(古事記)が
「多遲麻毛理」に
時じくの香の木の実を
垂仁紀(日本書紀)で
垂仁天皇が
「田道間守」を
常世国に遣わして
「非時香菓=橘の実」
を求めさせたが
その間に
天皇は崩御
↓↑
常世の国
少彦名神、御毛沼命、田道間守
が常世の国に渡った・・・
浦島子(浦島太郎)の
龍宮城=常世の国
↓↑
少彦名神
少彦名神が大国主とともに国土を成し
後に常世の国に帰った
『古事記』上巻
↓↑
国造り後、少彦名命は熊野の岬に行き
そこから“常世郷”に渡った
直後の異伝
「淡嶋(鳥取県米子市)に行き
登った粟の茎に弾かれて
常世郷に渡った
「伯耆国風土記」逸文にもあり
伯耆国の「粟嶋」という地名の由来譚
『日本書紀神代巻』第八段の一書・第六
↓↑
『古事記』
御毛沼命(三毛入野命)
「鵜草葺不合命」の息子
神武天皇の兄
御毛沼命は波の穂を跳みて
常世の国に渡った
『日本書紀』
三毛入野命が
神武天皇の東征に従軍し
軍船を進め熊野に至った折
暴風に遭い
「自分の母と姨はともに
海の神であるのに
なぜ波を起こして
我々を溺れさせるのか」
と嘆き、波の秀を踏んで
「常世郷」に往った
↓↑
橘=「非時香菓」=不老不死の霊薬
↓↑
『万葉集』巻九・1740
「高橋虫麻呂」作の
「浦嶋子」
浦島子が漁に出て
七日帰らず海を漕いで
常世に至り
海若(わたつみ)の神の宮に
神の乙女とともに住んだ
神の宮では老いも死にもせず
永世にわたって
生きることができたが
浦嶋子は帰郷し
時間の経過を知って
玉笥を開け、煙を浴び
白髪の老人になってしまた
常世の国=海の神の不老不死の世界
『日本書紀』の雄略天皇二十二年
『丹後国風土記』逸文
いずれも海中の「蓬莱山」に至った
嶋子の本名は
↓↑
「日下首嶋子(嶋子首)」
↓↑
但遅馬国造の一族・・・
↓↑
常世の国=死後の世界
神仙境・老不死の世界
↓↑
常世の神
↓↑
「橘」・・・「橘 美千代」って何者?
県 犬養 三千代
(あがた(の)いぬかい の みちよ)
天智天皇四年(665年)
~
天平五年一月十一日(733年2月4日)
ーーーーー ↓↑
和銅元年(708年)11月
元明天皇から
橘宿禰姓を賜り
養老五年(721年)5月
元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門
天智天皇の娘
草壁皇子の妻となった
阿閉皇女(元明天皇)に出仕した
敏達天皇系皇親
「美努王」
に嫁し
葛城王(橘諸兄)
佐為王(橘佐為)
牟漏女王
を生む
天武天皇十三年(684年)
第一子
葛城王を出生し
軽皇子(文武天皇)
は
天武天皇十二年に出生
元明天皇と三千代の
主従関係から
三千代は
「軽皇子」
の乳母を務めていた・・・
↓↑
美努王
と離別し
藤原不比等
の後妻となり
光明子
多比能
を生んだ
↓↑
藤原不比等
持統天皇三年(689年)
直広肆・判事
持統天皇十年(696年)
高市皇子死去
不比等は政権中枢に参画
文武天皇元年(697年)八月
不比等の娘
宮子
即位直後の
文武天皇の夫人となる
藤原朝臣姓が
不比等とその子孫に限定され
「藤原氏=不比等」家が成立
「阿閉皇女」
の信頼を受けた
「三千代」の存在があった・・・
↓↑
『続日本紀』
慶雲四年(708年)七月壬午(17日)
「阿閉皇女」即位し
元明天皇
和銅元年十一月
大嘗祭
不比等は
右大臣
葛城王の上奏文
癸未(25日)の御宴において
三千代は元明から
天武天皇の代から仕えていることを称され
杯に浮かぶ橘とともに
「橘 宿禰」の姓を賜り
橘氏の実質上の祖となった
県犬養一族のなかで
橘姓への改姓は
「三千代」のみであるが
三千代は改姓後も
県犬養一族に属した
藤原宮跡からは
大宝元年の年記を持つ
「道代」木簡と
大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる
「三千代」木簡が出土
橘姓への改姓と同時に名も
「道代」から「三千代」に改名・・・
同年五月
前夫の
「美努王」死去
↓↑
『続日本紀』
三千代は
養老元年(717年)
従三位
正史における三千代の初見
養老元年以前の
三千代の職掌・位は不明
霊亀元年(715年)時点
従四位・尚侍の任
霊亀二年(716年)
娘の
「安宿(光明皇后)」が
皇太子
「首(聖武天皇)」の妃
「県犬養 唐の娘
広刀自」
も「首(聖武天皇)」の妃
養老四年(720年)・・・「日本書紀」上奏
「不比等」死去
『続日本紀』に
養老五年
正三位
元明天皇の危篤に際し出家
733年(天平五年)1月11日
薨去
同年12月28日
従一位
760年(天平宝字四年)8月7日
正一位
大夫人の称号を贈られた
ーーーーー 「橘」・・・立場は名?
↓↑
常世の国に生える「非時香果」
『日本書紀』の皇極紀
橘に発生する「虫」を
常世神として祀る
新興宗教が
富士川の近辺で起こり
都にまで広がった
この神を祀れば
富と長寿が授かると説かれたが
「秦河勝」に討たれ
常世神信仰は終息
↓↑
雁=常世の鳥
『源氏物語』
「須磨」に歌が数首
・・・by ウィキペディア(Wikipedia)
ーーーーーー
↓↑
登呂=とろ=土呂・瀞・吐露
・・・瀞=氵+靜
氵+静
氵+靑+爭
氵+青+爭
氵+青+争
氵+龶+円+爫+彐+亅
氵+龶+月+爫+彐+亅
氵+龶+月+⺈+彐+亅
ジョウ
セイ
とろ
清い・清らか・汚れなく清い
とろ・どろ・川が深くよどみ静かなこと
『長瀞』
「瀞(とろ)」
緩やか・・・とろとろと燃える
とろとろと流れる
岩畳や川が長く緩やかに続く場所
川の深さが深く
流れが非常に静かな所
標高の低い湿地帯
地名
長瀞 (宮城県亘理郡亘理町)
長瀞 (山形県東根市)
長瀞 (山形県南陽市)
長瀞 (埼玉県秩父郡長瀞町)
長瀞 (神奈川県平塚市)
トロフィー(trophy)
トロピカル(tropical)
トロンボーン(trombone)
トロロいも・・・都呂々いも
トロける・・・・蕩ける
↓↑
トロイ(Troy)・・・「トロイの木馬」
Τροία・Troia・トロイア
(希臘語)
Troja・トロイアー
(古典拉丁・羅甸・ラテン語)
Ἴλιος・Īlios ・イリオス
(古代希臘語)
トロイの都市国家の名の変遷
テウクロイ→ダルダノス→ダルダニア→トロイア
↓↑
トロース(Τρώς・Trōs・トロイアの王)
と
カリロエー
の息子の「美少年」
ガニュメーデース(ガニメデ)を
臥爾喩目得出得素?(賀似女出?)
・・・蟹 目出?
蟹座=化け蟹カルキノス(希: καρκίνος)
ザリガニ
かにざ・Cancer
6/22(21)~7/22(23)
水無月=みなづき=見名通記
~
文月=ふみづき=史・書通記
8月=葉月
・・・元々大地に「天の雨」をもたらす神
ゼウスが
「鷲(Eagle)」に変身して誘拐し
オリュンポスの
給仕係(ページ・page)・・・頁・葉
とし
その代償として(トロース)に
「馬(horse)」を与えた
トロイ(troy)=仏国の地名 Troyes
トロイ(troy)=英国で貴金属・宝石に使用する
ヤードポンド法の
質量の単位
トロイ奴・・・「にぶい・のろい・鈍い」奴
どうやら「ニブイ」のはボクらしいが・・・
判るまでカナリの時間がかかる・・・
「トロッコ」=芥川龍之介の小説
・・・フゥゥ~ンッ、そうですか・・・
「トロ・ッこ」・・・
Minecart(ミニカート)・・・
truck (トラック)の訛り
ボクが子供(小学4年生)の頃住んでいた
鶉(うずら)と云う町は
「パンケ・歌志内川」=ペンケウタシュナイ川
ウタを志す、内(ナイ・うち)の川(セン・かわ)
アイヌの
「パンケ、ペンケ」さんの土地の川
「オタ・ウシ・ナイ」
「オタウシナイ」=砂浜の多い川の意
「ペンケオタシナイ」=上の四手綱の川の意
ペンケ=川上の(上の) ⇔熊襲の頭「川上師(川上猛)」
パンケ=川下の(下の)
を意味
を
挟んだ山合の西側の山の中腹斜面に
建てられた6段列の住宅「若葉台・A地区」の上の位置にあった
住宅の更に上の山の中腹は山が割れた谷間になっていたいたらしく
その谷間の空間には「ズリ=捨石(ぼた)」が捨てられ
無造作に捨てられ堆積された場所は
窪地と小山が沢山できていて子供の遊び場になっていた
「石炭ガラ」の
「砰捨て場」・・・砰=石+平=ずり・鉱山の坑内から
鉱石とともに運び出される
価値のない岩石や鉱物・土砂
九州地方では「ぼた・ボタ」
北海道では「ズリ・がら・ガラ」
になっており
ボクがそこに住む前には
トロッコの線路が轢かれ
その上にトロッコが存在し
トロッコで運ばれた石炭ガラが捨てられていた
だから、ボクは乗った経験はないが
双子の友達のアキちゃん、カズちゃんには
線路の上にトロッコがあった時
線路の上で押して
動き出したトロッコに跳び乗って
遊んだというハナシをドキドキしながら聞いた
凸凹の窪んだ砰捨て場は野球が出来るように
地域住人の大人達が休日にスコップで均してくれた
そのズリ山の持ち主は「どい」さん・・・
中腹の更の上に浄水池があり
その近くに「どい」さんの家があり
二人の子供の兄妹は同じ小学校の友達
山畠に植えられていた
莓・キイチゴ(木苺・懸鉤子・Bramble)・グスベリ
をムシリトって食べた
・・・馬と羊(めんよう・綿羊)がいて
遊びに行く度に追いかけられ逃げた・・・
山から降るときに足首を挫いて捻挫・・・
雪解けの春に
沢でザリガニ採りをしていた
テッちゃんと彼の友達が
雪崩に会って彼が埋まってしまった
彼の友達の知らせを聴いたボクの伯父さんと
近所の大人が現場に駆け付け
雪を掻き掘って気絶していた彼を引っ張り出し
伯父さんのビンタで息を吹き返し
その後の処置もされた
伯父さんはビルマ戦線派遣の
元衛生兵で、軍曹の生き残り・・・
北海道北見市の町の字
旧常呂郡常呂町土佐
由来は高知県人の入植
↓↑
「山内 一豊」
土佐山内氏、土佐藩初代藩主
家紋は
「三つ柏紋」・・・柏=木+白
紋=糸+文
十五代豊信(容堂)
「吉田 東洋」を起用
東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い
「武市 瑞山」の
「土佐勤王党」によって暗殺
勤王党は実権回復した
「容堂(豊信)」に
処刑、弾圧解散
上士勤王派から
「板垣退助」
東洋の門下の
「後藤象二郎」
「岩崎弥太郎」
ら輩出
「坂本龍馬」
「中岡慎太郎」
などが輩出
容堂から
十五代将軍
「徳川慶喜」へ献策された
「大政奉還」で江戸幕府は終焉
土佐藩は薩長土肥の一角をなした
↓↑
高知県高岡郡
日高村本郷
↓↑
土御門上皇が
流刑先の畑(幡多郡)から
阿波国へ移った途中で
物部川を見て現地の人に
「ここはどこか」と尋ね
「かがみの」と答えたから
承久三年(1221年)
承久の乱
↓↑
建久九年一月十一日(1198年2月18日)
父・後鳥羽天皇の譲位により三歳で践祚
三月三日(4月10日)即位
↓↑
ウシナワレタ「11=十一=拾壱=足壱=XI」
2018-10-13 01:52:57
古事記字源
↓↑
ウシナワレタ「11=十一=拾壱=足壱=XI」・・・
バラかキクか?・・・
「マグダレナ・ソフィア・バラ」?
・・・ダレ?・・・
バラ=茨=いばら・・・
茨木・茨城・荊 木・棘木・・・井原西鶴?
・・・バラに刺あり・・・キクにミミあり・・・
茨の冠・・・キクのハナには・・・???
・・・ハラにヘソあり・・・
臍(毘)には
「ごま=胡麻・護摩・独楽・駒・狛・高麗」・・・
↓↑
-ーーーー
バラか、キクか、ウシか?
↓↑
尼寺を設立・・・・・・・天寺・蛙目出等・鴉目出等
冶承四年(1180年)・・・事象・自性・自照・自笑・字象
↓↑
平家追討の兵を挙げた
朝日将軍
木曽義仲
↓↑
源 義仲=信濃源氏の武将・河内源氏の一族
源義賢の次男
源頼朝・義経兄弟とは従兄弟(いとこ)
木曾 義仲=「朝日=あさひ=旭」将軍
木曽=当時は美濃の国
義仲が匿われていたのは
東筑摩郡
朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)
後白河天皇の第三皇子の
以仁王=源以光の
「以仁王(もちひとおう)の令旨
治承四年(1180年)」で
平氏打倒の挙兵
寿永二年五月十一日(1183年6月2日)
倶利伽羅峠の戦い
(くりからとうげのたたかい
倶梨伽羅峠の戦い
「砺波山=礪波山」の戦い)
で
平維盛に勝利し
京へ向けて進撃し、同年七月上洛
平家は、
安徳天皇を伴って西国へ落ち延びた
元暦元年一月
・・・1184年4月16日~1185年8月14日?
↓↑ 甲辰・戊辰・丙戌
元暦二年七月九日(1185年8月6日)京都地震
地震のマグニチュードは M7.4 と推定
法勝寺など巨大寺院群が崩壊
乙巳・癸未・癸未
文治元年(元暦二年)乙巳(1185)
↓↑ 元暦二年三月 壇ノ浦に平家滅びる
西暦の元の暦の元の年の一の月?
庚申・戊子・己卯(申酉=空亡)
猿 鼠 兎
↓↑
粟津原・・・・粟の津の原・・・アワのツのハラ
足神源・賊心原・続震源?
粟=覀+米
あわ・ゾク・ショク・ソク
↓↑ 異体字は「𠧼・䅇・𥟫・𥸫・𥹟・𥻆・𥾄」
で最期を遂げ
宮菊・・・・ミヤのキク
菊=艹+勹+米(丷+十+八)
という一歳違いの
異母妹
「吾妻鏡
文治元年(1185)の条」・・・吾の妻の鏡?
文辞・文字・文事・分字 後歳(差異)の加賀見?
頼朝の妻
政子は・・・政子=尼将軍
宮菊を
「やしない子(養女)」にし
都に居た菊姫は
将軍の息女ということで
周囲にいた者たちが
菊姫の名前を騙(かた)って
役に立たぬ古文書をあげたり
不知行の荘園を寄付したり
菊の使いだといって
官位が高く権勢のある家柄の
荘園の年貢を横取りしたりした
これが
頼朝の耳に入り
頼朝は
菊姫を捕らえて
鎌倉に連行するように命じた
菊姫は自分は一切知らないと弁明し
政子がとりなし
頼朝は、兄
義仲は朝敵として討ったが
菊姫に罪はないとし
その境遇に同情し
『美濃国
遠山の荘の一村』
を与え
義仲恩顧の御家人である
小諸太郎光兼らに命じて
菊姫の面倒をみさせた
遠山の荘の一村とは
↓↑
馬籠
のこと・・・
「島崎藤村」の「夜明け前」・「破戒」
・・・???