虎視・横目・邪視・邪眼・・・銅鐸にも「邪視紋」・・・エジプト?
3003日目・文字霊日記
モンジュのチヱ・・・
古代エジプトで「太陽と月」は
ハヤブサ(隼⇔隼人)の姿、頭部を持つ
天空神「ホルスの両目」だと考えられてきた
二つの目は
左目(ウアジェト(ウジャト)の目)は月
右目(ラーの目)は太陽・・・天照大神は「左目」
の象徴とされた
・・・邪視・邪眼・・・銅鐸にも「邪視紋」・・・エジプト?
エジプト=埃及⇔馬糞風=北海道
・・・トラホーム(トラコーマの独語)
顆粒性結膜炎=エジプト眼炎
トラコーマ
・・・虎 呼尾目(魔)
虎 子於磨
寅 児(兒)緒巻?
トラコーマ(顆粒性結膜炎、エジプト眼炎)
クラミジア・トラコマチス
( Chlamydia trachomatis)
という細菌によって引き起こされる長期に渡る
眼の結膜の炎症・・・「慢性結膜炎」
2016年
世界保健機関(WHO)発表
トラコーマによる失明、視力障害者数は190万人
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「古墳時代」なら
「珍敷塚古墳」の磐繪(絵)?
繪=糸+會(会)
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「戦国時代末期」なら
「天正遣欧少年使節
↓↑ ↓↑
1582年(天正十 年
壬午年・明=万暦十年)」?
水馬=河馬= 魁罡(カイゴウ)
=北斗七星の魁(さきがけ)
北斗七星=魁+𩲃+𩵄+䰢+魓+𩳐+魒
天枢+天璇+天璣+天権=魁(カイ)
玉衡+開陽+揺光=標or杓(ヒョウ)
魁+杓=斗
「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」尊帝星君律令敕
「陰斗乙丁己辛癸為六陰」
「魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
「倶七斗之諱」
「毎叩歯而念一星・星者=魁𩲃𩵄䰢魓𩳐魒」
「北斗の柄の端から
2番目の
ζ星ミザールには
伴星アルコル (Alcor・輔星)が存在
視力検査に用いられる・・・視力の是非有無
視(み)ザール
御 座 る
帰化ざ る
岩 ザ ル
「北斗七星+輔星+弼星=北斗九星」
「榎本 武揚(釜次郎)」・・・蝦夷共和国総裁
蝦夷地(北海道)へ渡った
「開陽丸」は
「開陽星」に由来する
↓↑ ↓↑
明王朝 万暦十年
・・・万の暦を拾って賭(まかなう・カける)詞
太安万侶
2月20日
(天正十年一月二十八日)
「天正遣欧少年使節」が長崎を出航
↓↑
1582年
2月24日 教皇グレゴリウス13世
勅書「インテル・グラウィッシマス
最も重大なる懸念の内に」
「インテル・グラウィッシマス」は
「グレゴリオ暦」の導入を
依頼、勧告、推奨するもの
10月15日 「グレゴリオ暦」導入
前日はユリウス暦の
1582年 1582年
10月4日→(-10) →10月15日
56789 10 11 12 13 14
4日の翌日を「10日間」飛ばして「15日」とした
↓↑
6月21日(天正10年6月02日)本能寺の変
7月04日(天正10年6月15日)安土城炎上
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「関ケ原の1600年」なら
「豊後・大分に漂着した
ウイリアム・アダムス=三浦按針」?
ウィリアム・アダムス(William Adams)
1564年9月24日(ユリウス暦)
~
1620年5月16日
(元和六年四月二十四日)・・・元の和(話・倭・輪・環・数)
大運1616年2月(51歳)戊寅劫財
甲┏子(壬 癸)正官・偏財 絶⇔庚申傷官
壬┗申(戊壬庚)正財・傷官沐浴⇔辛巳食神
己 丑(癸辛己) ・比肩 墓⇔壬戌正財
庚 午(丙 丁)傷官・偏印建禄⇔丙午傷官
午未空亡
↓↑
1588年
海軍に入り
フランシス・ドレークの指揮下の
貨物補給船
リチャード・ダフィールド号
の船長として
1588年7月~8月(旧暦7月)
英仏海峡での諸海戦
「アルマダ
(Battle of Armada, Armada Wars)
の海戦」
に参加
↓↑
1589年
メアリー・ハインと結婚
娘デリヴァレンス
息子ジョン
を設けた
軍を離れて
バーバリー商会・・・バーバリー(Burberry Group plc)?
ロンドン会社
の航海士・船長
↓↑
ロッテルダムで極東を目指す
航海船員募集に弟の
トマスらと共に志願
5隻からなる船団
↓↑
ホーぺ 号(希望・旗艦)
リーフデ号(愛)
ヘローフ号(信仰・ロッテルダムに帰還)
トラウ 号(忠誠)
フライデ・ボートスハップ号(吉兆・陽気な使者)
↓↑
司令官
ジャック・マフ
アダムスは
ホープ号の航海士として採用され
1598年6月24日
ロッテルダムを出航
↓↑
マゼラン海峡を抜けるまで
ウィリアム
トマス(トラウ号に乗船)
兄弟は
リーフデ号に配置転換
トラウ号はポルトガルに
フライデ・ボートスハップ号はスペインに
拿捕
はぐれた
ヘローフ号はロッテルダムに引き返した
太平洋横断中
ホープ号沈没
リーフデ号は
食糧補給の寄港した港で
赤痢感染、壊血病蔓延
インディオの襲撃
で船員を失い
トマスもインディオに殺害
出航時に
110人
だった乗組員は
日本漂着までには
24人
になっていた
関ヶ原の戦い
約半年前の
1600年4月29日
(慶長五年三月十六日)
リーフデ号は
豊後臼杵
黒島
に漂着
↓↑
臼杵城主
太田一吉
が救助し
日本上陸
長崎奉行
寺沢広高
に通報され
アダムス
らは拘束され
船内の
大砲・火縄銃・弾薬を没収
・・・大砲は関ケ原、大坂城攻撃に使用・・・
大坂城の
豊臣秀頼に指示を仰いだ
この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ
オランダ人やイングランド人を即刻処刑の要求
↓↑
五大老首座の
徳川家康が
船長
ヤコブ・クワッケルナック
に代わり
アダムス
ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン
メルキオール・ファン・サントフォールト
らを大坂に護送
併せて船も回航させた
↓↑
5月12日(慶長五年三月三十日)
アダムス
と
ヤン=ヨーステン
が
徳川家康と引見し
路程や航海の目的
オランダやイングランドなど
プロテスタント国
と
ポルトガル・スペインら
カトリック国
の紛争を説明
家康は
執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺し
幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し
江戸に招いた
↓↑
アダムスは帰国を願い出たが
家康は米や俸給を与えて慰留し
外国使節との対面や外交交渉に際して
通訳を任せたり
助言を求めたりし
幾何学、数学、航海術
・・・ギリシャ神話、エジプト学は教えたカナ?
などの知識を
家康以下の側近に授けた・・・
↓↑
江戸湾係留の
リーフデ号が沈没
西洋式の帆船建造を要請され
アダムスは
「伊東」・・・静岡県伊東市=伊豆半島最東部
に日本で初めての
造船ドックを設置
・・・九鬼海軍の甲鉄戦艦(鉄甲船)建造には
「Dock」は
利用しなかったのか・・・?
80tの帆船を建造
1604年(慶長九年)完成
↓↑
1605年
干支 乙巳・・・645年=乙巳年=大化の改新
慶長十年
皇紀2265年
明王朝 万暦三十三年
唐人川
河口で造船を行ない
西洋式大型帆船2隻をつくる
1607年(慶長十二年)
120tの船舶を完成させた
↓↑
1605年
セルバンテス・・・競る番です・施留版(盤)出素(数)?
『ドン・キホーテ』(前編)・・・ダレが「ドンキ」か?
↓↑
家康は
アダムス
を250石取りの旗本に取り立て
帯刀を許し
「相模国・・・・佐賀観
逸見」・・・・何時(乙・伊津・伊都・伍)観
に采地を与え
「三浦按針」
の名乗りを与え
日本武士とした
この所領は息子の
「ジョゼフ」が相続
「三浦按針」の名乗りも「ジョゼフ」に継承された
↓↑
1613年(慶長十八年)
にイギリス東インド会社
クローブ号
が交易を求めて日本に来航
一行に付き添い
家康らとの謁見を実現させ
貿易を許可する
朱印状をイギリスの為に取りつけた
1614年(慶長十九年)
クローブ号帰還の際
一緒に帰国できる許可が
日英両方から出たが
同船司令官
「ジョン・セーリス」
と意見が合わず、帰国を見送った
後
オランダ商館より安い賃金の
母国イギリス商館で仕事をした
↓↑
1616年(元和二年)4月
家康が死去
徳川秀忠
幕臣
が貿易を
「平戸」のみに制限
鎖国体制を敷き
按針は不遇となった
按針の役目は
天文官のみとなり
幕臣や次期将軍候補の
徳川家光らに警戒され
1620年5月16日(元和六年四月二十四日)
平戸で死去
(享年55歳)
↓↑
1602年(慶長七年)頃
大伝馬町の名主
家康の御用商人
馬込
勘解由
平左衛門の娘
「お雪(マリア)?」と結婚
息子ジョゼフ(二代目三浦按針)
娘スザンナ
が生まれている
↓↑
エジプトとニッポンを繋ぐモノが「江戸時代末期」なら
「池田使節団」
↓↑
屋形古墳群
珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳
の4基の円墳で構成
墳丘が残っているのは
古畑古墳と原古墳のみ
珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)
奥壁と壁の腰石のみが残る
壁画には点と線を使った絵が描かれている
原古墳(はるこふん)
横穴式石室で
奥壁には赤色で
大型の船が描かれ
船の上には櫂を漕ぐ人
弓を持つ人が描かれている
鳥船塚古墳(とりふねづかこふん)
石室は破壊、奥壁の腰石2段を残すのみ
奥壁の1段目には
2個の靫と船、同心円文が描かれている
船は大きな櫂のある大型の船
人物が乗っており
帆を張る柱が2ヶ所
2段目には
鳥が船の艫と舳先に各1羽つづ止まっている絵が描かれている
古畑古墳(ふるはたこふん)
横穴式石室を持つ円墳
墳丘は2段築成
段築面には円筒埴輪が並んで
奥壁には三角文、人物、同心円文が赤色で描かれている
所在地
福岡県
うきは市
吉井町
富永653-2他
ー↓↑ーーー
横浜鎖港談判使節団=第2回遣欧使節=池田使節団
池田長発( 筑後守)正使
河津祐邦(伊豆守)副使
河田熙(相模守)目付
文久三年十二月二十九日~元治元年七月二十二日
(1864年2月6日~8月23日)
幕府がフランスに派遣した外交団
↓↑
1864年2月6日
フランス軍艦
ル・モンジュ号・・・文殊・文珠⇔「文殊菩薩」
↓↑ 711年(和銅四年)
法隆寺五重塔の
塑造群像に存在
文殊五尊図
文殊菩薩が
優填王・仏陀波利三蔵
善財童子・大聖老人(最勝老人=婆藪)
の四尊ともに描かれた絵図
↓↑ プラス・モンジュ駅(仏: Place Monge)は
フランス・ パリの5区にある
メトロ(地下鉄)7号線の駅
モンジュ=パン屋の屋号
フランス数学者の名前=ガスパール・モンジュ (Gaspard Monge)
著書に《画法幾何学》(1795)
↓↑ モンジュ (ミサイル追跡艦)
ル・モンジュ号
で日本出帆
上海、インド等を経由
スエズ~陸路でカイロ
ギザの
三大ピラミッド
スフィンクス
を見学し
写真撮影
地中海を通って
マルセイユ
に入港
↓↑
パリ
到着
皇帝ナポレオン3世に謁見
横浜の鎖港に関する交渉は
失敗
交渉を途中で打ち切り
5月17日(6月20日)
フランス政府とパリ約定を結び
一行は他の国には寄らず
同年7月22日(8月23日)に帰国
↓↑
咸臨丸・・・Screw(スクリュー)軍艦
幕府海軍保有の軍艦
バーク式の3本マスト
蒸気コルベット
旧名(オランダ語名)
Japan(ヤパン号・ヤッパン号・ヤーパン号)
「咸臨」=『易経』
君臣が互いに親しみ合うこと
↓↑
1855年(安政二年)7月
オランダ
キンデル ダイク・・・金出る大丘?
にて起工
キンデルダイク (蘭: Kinderdijk)
オランダの
南ホラント州
ニーウ・レッケルラント基礎自治体内の地区
ロッテルダムの南東約 13 km の位置
レク川
と
ノールト川に挟まれた風車設置地区
1857年(安政四年)
3月、完成
8月4日 (旧暦) 日本へ送られ
長崎海軍伝習所の練習艦となる
1860年(万延元年)
日米修好通商条約の批准書交換で
遣米使節団派遣の正使一行が乗艦する
アメリカ軍艦ポーハタン号の別船として
本艦も伴走派米
福澤諭吉らも便乗
米国派遣
↓↑
随伴艦として
幕府海軍の練習航海も兼ね
派米された
士官は
長崎海軍伝習所の教員がそのまま乗船
出発前に
「軍艦奉行」に昇進して遣米副使として
木村摂津守を除いて
艦内組織は未整頓で
教員の主席
「軍艦操練所教授方頭取」
「勝海舟」が先任士官として
運用の実質的責任者
対外的には
通訳の
「中浜万次郎(ジョン万次郎)」
「勝」が艦長
「木村」が提督
と説明・・・
↓↑
旧暦1月13日
品川を出帆
旧暦1月19日
浦賀を出港し
旧暦2月26日(太陽暦3月17日)
サンフランシスコに入港
往路は38日間の航海
荒天に見舞われ、艦の各所が破損し
日本人の乗員は疲労と船酔い
艦の運用は
ジョン・ブルック大尉指揮下の
アメリカ人乗員が代行
↓↑
復路
ハワイ経由
往路で同乗した
アメリカ人水夫のうち5名を雇った以外は
日本人のみでの運用
45日間の航海は好天
↓↑
小笠原派遣
1862年(文久二年)
艦長
小野友五郎・・・小野の友五郎?
小笠原諸島を巡視
父島と母島を探検
1866年(慶応二年)
故障頻発
蒸気機関を撤去し帆船となる
↓↑
1868年(慶応四年)
戊辰戦争
8月19日 (旧暦)
海軍副総裁
榎本武揚の指揮下で
旧幕府艦隊として
品川湊から
奥羽越列藩同盟の支援に向かう
8月23日 (旧暦)
銚子沖で暴風雨に遭い
榎本艦隊とはぐれ
下田港に漂着
救助に来た
蟠竜丸と共に清水へ入港
9月11日 (旧暦)
蟠竜丸は先に出航
咸臨丸は修理が遅れ
新政府軍艦隊に追い付かれ
乗組員の多くは戦死または捕虜
逆賊として放置された乗組員の遺体を
清水次郎長が
清水市築地町に埋葬
↓↑
明治二年九月
1869年10月~11月
咸臨丸は兵部省から民部省回漕方に交付
1871年(明治四年)9月19日 (旧暦)
片倉氏の旧臣401名を移住させる目的で
北海道小樽へ向け出航
輸送途中
北海道
木古内町
泉沢沖
で暴風雨(米人船長の操船)で遭難し
サラキ岬で破船、沈没
1887年(明治二十年)
清水次郎長が
清水市興津の
清見寺に
咸臨丸乗組員
殉難碑を建立
1984年(昭和59年)
サラキ岬沖で
鉄製の朽ちた錨が発見
錨は咸臨丸のものだった
↓↑
建造所 ホップ・スミット造船所
オランダ
キンデル ダイク市・・・金出る大丘?
ヘレフートスライス海軍工廠
運用 江戸幕府
艦種 コルベット
発注 1855年(江戸幕府)
起工 1855年
竣工 1857年3月(安政四年二月)
就役 安政四年九月五日受領
1871年 沈没
↓↑
1853年7月
嘉永六年六月
黒船来航
「鳳凰丸」
Japanese warship Hou-Ou Maru. 1855 painting.
洋式軍艦
安政二年二月(1855年3月頃)
1853年(嘉永六年)に建造決定
建造 浦賀造船所
発注 江戸幕府
起工 1853年10月22日
竣工 1854年6月6日(安政元年五月)
戊辰戦争後
兵部省を経て
大蔵省所属に移管
「旭日丸」
発注 江戸幕府・水戸藩
建造所 水戸藩石川島造船所
起工 1854年1月30日
進水 1855年
就役 1856年
水戸藩が建造
洋式軍艦
明治維新後
輸送船
本船建造で
石川島 造船所
が開設
↓↑
水戸藩
徳川斉昭
洋式船建造に関して
天保十二年(1841年)
「快風丸」の再建名目で
半洋式の大型船建造を企画
計画は幕府から許可が下りなかったが
同年に
「バッテラ(Bateira)」
と呼ばれる小型の洋式船2隻を
「那珂湊」で密造・・・
↓↑
小石川
の水戸藩邸でお抱えの蘭学者
「鱸半兵衛」・・・鱸の半兵衛?
を中心に
オランダの造船書などの翻訳
雛型(縮小模型)の製造が進められ
1853年11月30日(嘉永六年十月三十日)
雛型は
将軍
徳川家定
以下に供覧
↓↑
1853年12月12日(嘉永六年十一月十二日)
正式な建造命令
1854年1月30日(嘉永七年一月二日)
幕府直轄地
隅田川河口に
水戸藩が整備した
「石川島 造船所」で起工式
1855年
進水したが
着底して横倒しになり
オランダの書物を参考に
廻船や樽で浮力させ復元
江戸の町民たちから
「厄介丸」と揶揄された
後、横浜に回航されて艤装工事
約2年半後の
1856年6月頃(安政三年五月)に竣工
「旭日丸」と命名
昇平丸
起工1853年5月
進水1854年4月
竣工1854年12月
薩摩藩が建造
洋式軍艦
幕府に献上され
「昌平丸」
と改称
薩摩藩主
島津斉彬
嘉永5年12月27日
幕府に対して
「琉球王国」の防衛を名目に
「琉大砲船(洋式軍艦)」の建造願いを提出
嘉永六年(1853年)4月29日
建造許可
5月29日
桜島
瀬戸村
造船所で起工
↓↑
嘉永六年(1853年)6月
アメリカ合衆国
マシュー・ペリー
アメリカ東インド艦隊が来航(黒船来航)
老中
阿部正弘
の主導で
8月8日
水戸藩に
「旭日丸」の建造
9月8日
浦賀奉行に「鳳凰丸」の建造を命じ
9月15日
大船建造禁止令を解除
↓↑
琉大砲船
嘉永七年(1854年)4月3日進水
安政元年(1854年)12月12日竣工
嘉永七年(1854年)5月10日
鳳凰丸に続いて
日本で
2番目の洋式軍艦
↓↑
琉大砲船
安政2年(1855年)1月26日
昇平丸と命名
2月
江戸に回航
8月13日
幕府に献上
後
品川
に置かれ
長崎海軍伝習所への
伝習生派遣など
練習艦として使用
↓↑
1854年(嘉永七年)3月
日米和親条約調印後
外国船と区別する標識が必要となり
日本国共通の船舶旗(日本惣船印)の必要が生じ
幕臣達は当初
「大中黒」
(徳川氏の先祖である
新田氏?の旗・白地に黒の横一文字)
を日本惣船印に考えていたが
薩摩藩主
島津斉彬
幕府海防参与
徳川斉昭
らの進言によって
「日の丸」の幟を用いることになり
7月9日
老中 阿部正弘
布告し
昇平丸に「日の丸」が船尾部に掲揚
日本の船旗として掲揚した第一号・・・
↓↑
浦賀奉行の提案で
徳川斉昭の支持を得て
鳳凰丸」竣工に際し日本船の総印として規定
「昇平丸」にも適用・・・
↓↑
明治二年(1869年)
「昌平丸」は
「咸臨丸」と共に開拓使所管となり
輸送船として使用
明治三年(1870年)3月
松前沖で嵐に遭遇
北海道の
上ノ国
木の子村
「猫澤」海岸
で高波により座礁破船
鳳凰=ホウオウ=法皇・訪欧・・・丸・〇・円・まる・麻呂・・・
ーーーーー
・・・???・・・「日の丸」・・・「月の丸」・・・
埃及(Egypt・エジプト)の「ウジャト」・・・
ウアジェト(Wadjet・ウジャト)=古代エジプト神話の女神・・・
「ウアジェトの目」
「ホルスが父オシリスの敵セトを討つ時に奪われた左目」
「ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神
ホルスの両目(「ホルスの目」)」
二つの目は区別され
左目(「ウアジェト(ウジャト)の目」)は月
右目(「ラーの目」)は太陽
ーーーーー
・・・邪眼・邪視・・・