もの述べ新化備・・・合等解・・・?

 2988日目・文字霊日記
 山師・・・古代~明治時代の地質学者・・・和銅
 ・・・新しい物は慣れるまでは使いずらい・・・
 機能が類似していても使い方の仕様が可なり異なっている・・・
 貼り付けている絵は「ホームビルダー」で作ったモノだが・・・
 これが起動せず使い物にならなくなった・・・
 ↓↑
 「頁=一+ノ+目+ハ=ケツ・おおがい・ページ=page」
 頁(おおがい・いちのかい)
 ケツ
 ヨウ
 かしら
 ページ
 こうべ・人間の頭
 ページ=書物の一枚の紙の片面
     紙を数えるときに用いる
    「葉(ヨウ)」と
     同音であることから・・・?
 ↓↑
 頁(かしら)
 頁(ページ)
 頁岩(ケツガン)
 堆積岩の一
 粘土が水底で
 堆積した地層、岩相の岩
 ↓↑
 一枚岩(いちまいいわ)
 割れ目などがない一つの大きな岩
 ↓↑
 花崗岩(カコウガン)・・・化工元(頑)
 深成岩の一種・・・・・・・申請願
 石英
 長石
 雲母
 などからなる
 主に
 白色で黒や灰の点がある
 固いことから
 土木や建築などに使われる
 御影石・・・・・・・・・・音型尺(釋・釈)
 ↓↑
 火山岩(カザンガン)・・・渡辺
             「崋山・華山」願
 火成岩の一種・・・・・・・仮性元
 溶岩が
 冷えて固まってできたもの
 玄武岩・・・・・・・・・・言部頑
 安山岩・・・・・・・・・・暗算願
              読み書きソロバン
              算盤・十露盤
 ↓↑
 火成岩(カセイガン)
 マグマ(magma)が・・・万求磨
 冷めてできた岩石の総称
 石英や長石などから構成
 火山岩と深成岩に大別
 ↓↑
 奇岩(キガン)・・・・・基岩・祈願・記元
 変わった形をしている岩
 変成岩・・・・・・・・・編成頑
 ↓↑
 凝灰岩・・・・・・・・・業界願・行改元
 (ギョウカイガン)
 堆積岩の一種・・・・・・泰碩願
 火山灰の凝結した岩
 ↓↑
 磐余彦=いわれ=神武天皇
 神武天皇
 辛酉年一月一日~神武天皇七十六年三月十一日
 在位 同
 明治時代の計算
 即位日
 西暦
 ユリウス暦
 紀元前660年2月18日
 グレゴリオ暦
 紀元前660年2月11日・・・貳解通壱拾壱字通?
    660÷60=11・・・・十一=一一
             壱拾壱=壹足壹
    イチひろうイチ
            位置拾一・位地卑陋移置
                   鄙陋
 干支歴 辛酉年・丙寅月・庚辰日・土曜日
    「神佑・深憂・神有」念
 ↓↑
 諱  彦火火出見(ひこほほでみ)
          肥後火火出見?
    狭野(さぬ)
    若御毛沼命
    豊御毛沼命
    始馭天下之天皇
 ↓↑
 多重の書籍=本の多重のページ
    諸石
 ↓↑
 岩井の乱
 磐井の乱
 527年(継体二十一年)
 朝鮮半島南部へ出兵しようとした
 近江毛野
 率いるヤマト王権軍の進軍を
 筑紫君
 磐井(『日本書紀筑紫国造)
 がハバミ(阻み・はばみ)・・・葉羽見?
 翌528年(継体二十二年)十一月・・・22年11月・・・?
 物部 麁鹿火(もののべ の あらかび・あらかい)
        もの述べ  新 化備・合等解?
    麁=々+鹿=粗・・・粗末
      麁(あらい)
      麁(おおきい)
      麁(くろごめ)
      麁(ほぼ)
    麤(本字)=鹿+鹿+鹿=ロク+ロク+ロク
    肌理(きめ)があらい・粗末な・おおきい
    ほぼ
    玄米
    ス・ソ・ゾ
    あらい、はなれる
   (木・棒・柱・管・毛・胴・首
    など
    棒状のものの周りが)
    太い・・・ふとい⇔符問い・・・負土肥?
    太安万侶
    太歳星=木星=辰星=ユピテル・Jupiter
    太初・太祖・太子・太古・太鼓
    太平・太山
    太陽・太陰

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    太(タイ)
    日本語
   「アマリにも」
    海女里
    海毎里
   「ハナ-ハダしい」
    花環・鼻輪・洟瑞
    塙 葉拿恣意
 ↓↑ ↓↑
    塙  保己一
    華(崋)輪 保記位置?
    渡辺崋山
    英和 補記意知?
 ↓↑ ↓↑
    小関三英(こせき さんえい)
    天明七年六月十一日
    1787年7月25日
    ~
    天保十年五月十七日
    1839年6月27日
           1833年6月(45歳)壬寅正官
                    ┣支合
    丁┏未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔己亥食神
    丁┣未(丁乙己)比肩・食神冠帯⇔庚午正財・支合
    丁┣未(丁乙己)  ・食神冠帯⇔辛亥偏財
    丙┗午(丙 丁)劫財・食神建禄⇔甲午印綬・自刑
      寅卯空亡
      両神相生格
 ↓↑     ↓↑
    医者・蘭学者
    名  好義
    幼名 弁助
    通称 良蔵
    号  鶴斎・鶴洲・篤斎
    出羽国山形県庄内地方・鶴岡 出身
    コンスブルフの内科書を和訳
   「泰西内科集成」
    天保三年(1832年
    和泉国
    岸和田藩医
    幕府
    天文方
    阿蘭陀書籍和解御用=翻訳係
    尚歯会に参加
    渡辺崋山
   「耶蘇伝」を口訳した
    ナポレオン・ボナパルト伝記
    リンデン著の
   「那波列翁伝」翻訳
    他に
   「新撰地誌」
   「西医原病略」
   「輿地誌」

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    塙 保己一(はなわ ほきいち)
    延享三年五月五日(1746年6月23日) ・・・?
    ~
    文政四年九月十二 日(1821年10月7日)
              1821年3月(74歳)壬寅・食神
                 10月7日死亡
     丙┏ 寅(戊丙甲)偏官・偏財 絶⇔辛巳・劫財・空亡・害
      三合丙
     甲┣ 午(丙 丁)偏財・印綬沐浴⇔丁酉・正官
      冲
     庚┣ 子(壬 癸)  ・傷官 死⇔己未・印綬・害
      冲
     壬┗ 午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔庚午・比肩・自刑
       辰巳空亡
 ↓↑   ↓↑
     1746年6月22日・・・?
     丙┏ 寅(戊丙甲)⇔辛巳・食神・空亡・害
      三合丙
     甲┗ 午(丙 丁)⇔丁酉・偏印
     己  亥(戊甲壬)⇔己未・比肩
 ↓↑   ↓↑
   国学者
   幼名 丙寅年生まれにちなみ
        寅之助
   失明後に 辰之助
   一時期  多聞房
   雨富検校に入門後・・・雨の富の検校
   千弥(せんや)
   保木野一(ほきのいち)
   保己一(ほきいち)
   と改名
  『群書類従』『続群書類従』編纂
   総検校・贈正四位
   四男 国学者
   塙 忠宝
   ・・・伊藤博文と山尾庸三に
      文久二年(1862年
      十二月二十一日
      暗殺された
 ↓↑   ↓↑
   塙 保己一は
   武州
   児玉郡
   保木野村(埼玉県本庄市児玉町保木野)
   に誕生
   塙は師の
   雨富須賀一の本姓
   荻野(おぎの)氏の出自
   近世に帰農した百姓の家系
   父 宇兵衛
   母 加美郡
   木戸村(上里町藤木戸)
   名主
   斎藤理左衛門家の娘
   きよ
   弟 卯右衛門(うえもん)
 ↓↑
 磐井は
 物部 麁鹿火
 によって鎮圧された
 ↓↑
 527年(継体二十一)六月三日
 ヤマト王権
 近江 毛野
 6万人の兵を率い
 新羅に奪われた
 南加羅
 喙己呑(トクコトン)
  喙=ついばむ
  己=おのれ・よこしま
  呑=呑(のみ)込む
 奪回するため
 任那
 へ向かって出発
 新羅
 筑紫(九州地方北部)
 磐井(日本書紀筑紫国造磐井)
 へ贈賄
 ヤマト王権軍の妨害要請
 磐井は
 火の国(肥前国肥後国
 豊の国(豊前国豊後国
 を制圧し
 倭国朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
 朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
 近江毛野軍の進軍と交戦
 磐井は
 近江毛野
 「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ
  お前などの指示には従わない」
 と言った・・・同僚・・・?
 ↓↑
 継体天皇
 ・・・15代応神天皇の5世孫
    越前国の領主
    諱  男大迹(ヲホド)
    別称 袁本杼命
    彦太尊
    雄大天皇
    乎富等大公王
    父  彦主人王
    母  振媛
    皇后 手白香皇女
    夫人 尾張 目子媛 ほか
 は
 大伴金村
 物部麁鹿火
 巨勢男人
 らに将軍の人選を諮問
 物部麁鹿火
 が推挙され
 同年八月一日
 麁鹿火が将軍に任命
 ↓↑
 528年11月11日・・・5+2+8=15=壱拾五
           伍陌貳拾(足)捌
           十一・壱拾壱・壹拾壹
           壱=十+一+冖+匕
           壹=十+一+冖+豆
 磐井軍
 と
 麁鹿火
 率いるヤマト王権軍が
 筑紫三井郡(福岡県小郡市三井郡付近)
 で交戦
 磐井軍敗北
 磐井は
 物部麁鹿火に斬殺・・・
 ↓↑
 『筑後国風土記逸文
 磐井が
 豊前
 上膳県へ逃亡
 その山中で死んだ
 同年12月
 磐井の子
 筑紫葛子
   葛(くず・カツ)・・・葛城・葛木
   子(シ・ス・・・・・・葛城皇子
   こ・ね・こ・さね
   しげ・しげる
   たか・ただ
   たね
   ちか・つぐ・とし
   ね・み・みる・やす)
 は連座から逃れるため
 糟屋(福岡県糟屋郡付近)
 の屯倉ヤマト王権へ献上
 死罪を免ぜられた
 ↓↑
 529年3月
 ヤマト王権倭国
 再び
 近江毛野
 を
 任那
 安羅へ派遣
 新羅との領土交渉
 ↓↑
 『筑後国風土記逸文
 磐井の墓に関する記事
 『古事記
 袁本杼命(男大迹王・継体天皇)の没年
 丁未四月九日(527年5月26日?)
 筑紫君
 石井(いわい)
 が天皇の命に従わないので
 物部 荒甲(物部 麁鹿火)
 大伴 金村
 を派遣し
 石井を殺害・・・
 『国造本紀』
 磐井
 と
 新羅
 の関係を示唆する記録

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ー↓↑ーー
 岩石論・・・「古事記・ガンセキ論」・・・?
 メドゥーサ
 (Medoūsa・メデューサ)=目動作
 ↓↑
 ・・・石化⇔化石・アンモナイト=菊石
    医師化?  巻貝の化石
    古生代シルル紀末期(orデボン紀中期)
    ~
    中生代
    白亜紀
    3億5000万年前後の期間に
    海洋に広く繁栄した
    オウムガイ亜綱
   (Nautiloidea)の中から分化した
    軟体動物
    頭足類の分類群の一
    北海道三笠博物館の
    展示アンモナイト
    ギリシア
    羊角神アンモーン(Ammōn)
   「アンモーンの角(ラテン語: cornu Ammonis)」
    アモン大神殿
    エジプト南東部
    ナイル川東岸
    ルクソールにある
    カルナック神殿の中核神殿
    テーベの守護神
 アモンが
 太陽神ラーと結合
 カルナック神殿
 中王国時代(紀元前2055~1650年頃)
 センウセルト1世(紀元前1965~1920年頃)
 プトレマイオス朝(紀元前332~32年)
 ローマ支配時代(紀元前30~後395年)
 まで継続
 カルナック神殿
 アメン神をその頂点とする新王国時代
 テーベ三柱神崇拝の中心地
 ↓↑
 アメン大神殿
 都市テーベ
 中王国時代
 第11王朝(紀元前2055~1985年頃)
 第11王朝
 国家神
 モンチュ
 第11王朝による小さな八柱神
 アメンについて記録
 第1中間期(紀元前2181~2055年頃)
 テーベのア
 第12王朝(紀元前1985~1795年頃)
 王朝の守護神モンチュに代わり
 国家神となった
 アメン=雄羊や鵞鳥(がちょう)
 アメンの名は隠すという動詞の
 「imen」に由来
 エジプト語の意
 「隠された者・隠された神」
 アメンの称号「その姿・神秘なる者」
 豊饒神ミン
 太陽神ラー
 などと習合
 ↓↑
 アメン大神殿建設工事
 テーベが統一された古代エジプトの首都
 第18王朝(紀元前1550~1295年頃)
 新たな建設は
 第19王朝(紀元前1295~1186年頃)
 セティ1世(紀元前1294~1279年頃)
 ラムセス2世(紀元前1279~1213年頃)
 着工され
 列柱室の建設は
 第18王朝の間に始まった・・・
 ↓↑
 女王ハトシェプスト(紀元前1473~1458年頃)
 記念物を建造
 ヒクソスの占領中に破壊されていた
 女神ムトのかつての神域を再構築
 カルナック「赤い祠堂」は「聖舟祠堂」とされ
 2基のオベリスクの間に建っていた・・・
 ↓↑
 西暦323年
 コンスタンティヌス1世(306~337年)
 キリスト教徒の信仰を認め
 356年
 コンスタンティウス2世(337~361年)
 異教神殿の閉鎖
 カルナック神殿
 大部分が放棄され
 トトメス3世祝祭殿の中央の間に
 キリスト教会を建設
 ↓↑
 アメン大神殿
 ピネジェム1世の巨像(もとラムセス2世像)
 アメン大神殿(アメン=ラーの神域)は
 神殿複合体の神域内のうち最大で
 テーベ三柱神(アメン、ムト、コンス)
 の最高神である
 アメンに捧げられている
<photo src="v2:2207153425:l">
 ↓↑
 アンモナイト(ammonite)
 アンモン(ammon)=太陽神
 +
 アイト(ite)=石
 アンモン
 頭に渦を巻いた角を持ち
 その角と化石の形が似ている
 アンモニウム(ammonium)
 エジプトの
 アモン神殿の近くから
 アンモニウム塩が産出した事による命名
 ↓↑
 中国 明代
 李時珍(1518~1593)
 『本草綱目』(1596)に
 石蛇・石燕・石蟹
 など、「化石」の記録
 ↓↑
 メドゥーサの
 見たものを石に変える能力を持つ
 頭髪は無数の毒蛇
 イノシシの歯
 青銅の手
 黄金の翼
 腰に蛇をまいた姿
 イノシシの胴体と馬の下半身
 の合体した姿で描かれる・・・
 ↓↑
 海神
 ポセイドーンの愛人
 ポセイドーンとの間に
 天馬ペーガソス
 巨人クリューサーオール(黄金の剣の意)
 ↓↑
 ペルセウスによって
 首を切り落とされ
 切り落とされたメドゥーサの首から
 滴り落ちた血は
 ペルセウスによって
 2つの瓶に集められ
 アテーナーに献上された
 右側の血管から流れて
 右の瓶に入った血は
 死者を蘇生
 左側の血管から流れて
 左の瓶に入った血は
 人を殺す力があった
 アテーナー
 死者を蘇生させるメドゥーサの血を
 アスクレーピオスに授け
 彼はこの血を混ぜた薬を使用
 ↓↑
 コリントス先住民族の女神
 デーメーテールと同一神・・・
 両神共にポセイドーンとの間に
 馬形の神霊
 アレイオーン
 ペーガソス
 を産んでおり
 ポセイドーンとは夫婦だった・・・
 ↓↑
 元々美少女
 メドゥーサは
 海神ポセイドーンと
 アテーナーの神殿で交わり
 アテーナーの怒りをかい
 醜い怪物にされてしまった
 ペルセウスに討ち取られた首は
 アテーナー
 山羊皮の楯
 アイギス
 (aegis・イージス)・・・医意字素?
 に嵌め込んだ
 ↓↑
 美少女で
 自分の髪を自慢して
 アテーナーと美を競って
 髪の毛を蛇に変えられた
 ↓↑
 ペルセウス
 鏡のように磨き抜かれた盾を見ながら
 曲刀(ハルペー・不死身殺しの武器)で
 眠っている
 メドゥーサの首を掻っ切った
 メドゥーサの首から出た血は
 空駆ける天馬
 ペーガソスを生んだ
 ポセイドーン
 と
 メドゥーサ
 の子である黄金剣を持った巨人
 クリューサーオール
 も生まれた・・・
 ↓↑
 ペルセウス
 空飛ぶ翼のあるサンダルで
 海を渡っている際
 包んであったメドゥーサの首から血が滴り落ち
 それが赤いサンゴになった
 切り落としたメドゥーサの首から滴る血が
 砂漠に落ち
 サソリなどの猛毒の生き物が生まれた・・・
 ↓↑
 ペルセウス
 海から突き出た岩に
 縛り付けられた
 アンドロメダーを発見
 母親カッシオペイアが
 娘アンドロメダーの方が
 海の
 ニュンペーより美しいと公言し
 海神ポセイドーンの怒りに触れ
 海の怪物
 ケートス(クジラ・海竜姿の怪物)
 の生贄にされるため
 岩に磔になっていた
 ペルセウス
 メドゥーサの首を取り出し
 怪物を石に変えた
 ペルセウス
 アテーナー女神に
 メドゥーサの首を贈り
 アテーナー
 自分の盾
 アイギス
 メドゥーサの首をつけ
 最強の盾とした・・・
 ↓↑
 ポンペイ遺跡から発掘された
 「イッソスの戦い」のモザイク画に
 メドゥーサの胸当てを付けた
 アレクサンダー大王が描かれている
 ↓↑
 肝硬変
 肝臓へ門脈からの血流狭窄
 腹壁静脈怒張が
 臍を中心として
 放射状に蛇行して見られる状態を
 メデューサの頭と呼ぶ・・・
ー↓↑ーー
 地質論・・・知質論
 慕維廉(W.Muirhead)
 『地理全志』の翻刻本が刊行
 安政六年(1859)
 ↓↑
 箕作阮甫
  寛政十一年九月七日
  1799年10月5日
  ~
  文久三年六月十七日
  1863年8月1日
  津山藩士、蘭学者
  名 貞一・虔儒
  字 痒西
  号 紫川・逢谷
 が
 『地質辮證』
 蘭書から訳述
 文久元年~二年(1861~1862)
 明治五年から
 文部省の教育施策
 翻訳
 地質学書刊行
ー↓↑ーーー
 幕府天文台翻訳員
 ペリー来航時
 米大統領国書を翻訳
 対露交渉団の一員
 蕃書調所の首席教授
 幕臣
 「安政五カ国条約」に携わった
 医学雑誌
 『泰西名医彙講』
 『外科必読』
 『産科簡明』
 『和蘭文典』
 『八紘通誌』
 『水蒸船説略』
 『西征紀行』
 訳述書は99部160冊余り
 分野は
 医学・語学・西洋史兵学・宗教学
 ↓↑
 日本で初めて
 「地質学」という言葉を作り
 地質学・鉱物学書の
 『日本記聞 下』を著
 その書の中に
 「密涅刺羅義(ミネラロギ)」
 という見出しで
 ドイツ語原著
 『フリードリヒ・シェドラー博士の自然の本
  物理学、天文学、化学
  鉱物学、地質学
  植物学、動物学
  生理学
  の科学の基礎入門』
 から
 「鉱物学」の抄訳がある・・・
 ↓↑  ↓↑
 「諳 厄利亜語林 大 成
 (あんげりあごりんたいせい)」
 本木 庄左衛門(正栄)
 が中心になって編纂した
 日本初の英和辞典
 文化11年(1814年)に完成・・・文化壱拾壱撚?
 編纂には本木の他
 通詞の
 馬場貞歴、末永祥守、楢林高美、吉雄永保
 らが当たった
 ↓↑
 古賀 謹一郎
 (こが きんいちろう)
 文化13年11月11日
 1816年12月29日
 ~
 明治17年1884年
 10月31日
 儒学者・官僚
 本姓 劉
 諱  増(まさる)
 筑後
 字  如川
 号  謹堂・茶渓
    沙蟲老人
 ↓↑
 天保七年(1836年)
 大番役
 天保十二年(1841年)
 書院番
 家塾 久敬舎を父より引き継ぐ
 弘化三年(1846年)31歳
 昌平黌(昌平坂学問所
 儒者見習
 翌年、儒者・15人扶持
 ↓↑
 漢訳蘭書による独学で西洋の事情を習得
 米国への漂流者から欧米の事情を取材した
 『蕃談』を著す(書写本にて流布)
 昌平坂学問所の教官
 同僚
 佐藤一斎、林復斎、安積艮斎
 昌平黌
 家塾久敬舎
 儒学上の門人
 阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進)
 大野右仲、秋月悌次郎河井継之助
 白洲退蔵、平田東助
 ↓↑
 嘉永六年(1853年)
 ロシアのプチャーチン艦隊の来航
 応接掛
 目付
 筒井政憲
 川路聖謨
 に随行して長崎でロシア使節との交渉
 翌年ロシア艦再来日
 伊豆下田で交渉を行い
 日露和親条約の締結
 ↓↑
 蕃書調所設立
 安政二年(1855年)8月30日
 謹一郎は阿部より
 洋学所頭取(校長)に任命
 蘭書翻訳・教育機関の構想を練り
 勝麟太郎
 らとともに草案作成
 9月蕃書調所設立案を提出
 安政四年(1857年)正月
 蕃書調所が正式開設
 ↓↑
 蕃書調所頭取(校長)として
 国内の著名な学者を招聘
 蘭学者
 「箕作阮甫」を教授として招いた
 教授見習
 三田藩 の川本幸民
 周防出身の手塚律蔵
      村田蔵六大村益次郎・当時は宇和島藩出仕)
 薩摩藩 の松木弘庵(寺島宗則
      西 周助(西周
      津田真一郎(津田真道
      箕作秋坪
      中村敬輔(中村敬宇
      加藤弘之
 幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用
 ↓↑
 蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが
 英語の隆盛を鑑み
 英語・フランス語・ドイツ語
 の教授も行わせた
 入獄中の
 「堀達之助」の才能を惜しみ
 便宜を図って出獄させ
 日本最初の
 英和辞典
 『英和対訳袖珍辞書』
 を作らせた
 ↓↑
 文久二年(1862年)五月
 御留守居番就任
 蕃書調所(洋書調所)→開成所)
 の頭取を解任された
 慶応二年(1866年)
 製鉄所奉行
 翌年に目付
 筑後守に補任
 江華島を巡る
 フランス
 と
 李氏朝鮮
 の紛争の仲介任務を託されるが未遂
 緒方洪庵の墓碑銘を記す
 慶応三年(1867年)十月
 大政奉還
 滝川具挙
 などと共に上京の命
 ↓↑
 大学校(昌平黌、蕃書調所の後身)
 の教授として新政府から招聘されたが
 徳川家の駿府転封に伴い
 静岡へ移住
 中村敬宇(正直)
 と漢詩の応酬を行う
 明治初期のベストセラー
 中村の
 『西国立志編
 (サミュエル・スマイルズのSelf-Helpの訳書)
 に序文を寄せた
 リンネの植物学書などの洋書をまとめた
 『蕈説』
 (キノコに関する言説をまとめた書)
 などを著作
 ↓↑
 明治六年(1873年
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 明治十七年(1884年)8月20日
 高畠五郎が暑中見舞いに訪れ
 長茄子、南瓜
 球形の
 白甜瓜などを持参
 胃管狭窄により
 弟子の
 吉田賢輔に看取られて
 67歳で死去
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 「プラトン古事記をカタル」
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 「月間の日干支サイクル」
http://meisiki.bake-neko.net/keisanBXG4.html
 「年月日時×大運干支命式表の組織化」
http://meisiki.bake-neko.net/meisikau/meiww35a2.html