白黒のコマ・・・明暗のカゲ・・・七色のニジ

 3068日目・文字霊日記
 斯の波の選択⇔胡の馬の選択⇔愛馬・青白馬⇔項羽・虞美人
  ↓↑
 ・・・「日本国・日本国民・日本市民」・・・地球人で宇宙人だけれど・・・
 白を黒と言いくるめ、黒を白と言いくるめる
  ↓↑
 「そこで見ていると
  見よ
  青白い馬が出てきた。
  そして
  それに乗っている者の名は
  「死(身罷・神去・逝く・亡くなる・斃=くたばる)」
      斃=敝+死=毙=比+死
        㡀+攵+歹+匕
        丷+巾+八+攵+一+夕+匕
        ヘイ
        しぬ
        たおれる
        ほろぼす
        ころす  
        みまかり・かむさり・くたばり・いく
  と言い
  それに黄泉(よみ・陰府)が従っていた。
  彼らには
  地の四分の一を支配する権威
  および
  剣(つるぎ・刀)と
  飢饉(うえ・飢餓)と
  死(みまかり・身罷り)と
  地の獣らとによって
  人を殺す権威とが
  与えられた」
  ↓↑
 And behold,
 a pale horse,
 and he who sat on it,
 his name was Death.
 Hades {or, Hell} followed with him.
 Authority over one fourth of the earth,
 to kill with the sword,
    with famine,
    with death,
  and by the wild animals of the earth was given to him.

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 朝廷年中行事
 天皇が馬を見る行事
 「白馬節会(あおうまのせちえ)」
 「青馬(黒い馬)」が
 後に
 「白い馬」に変わったので
 「白馬(あおうま)」になった・・・?
  ↓↑
 馬の「青毛
 全身黒色のもので
 この中に白い毛が多く混在すると
 芦毛(あしげ)という
  ↓↑
 青毛の馬を
 「青馬(あおうま)」と呼び
 「白馬(あおうま」と読む
 黒っぽい色の馬ではなく
 白または「芦毛の馬」をさす
  ↓↑
 平安時代の「アヲウマ」の漢字を
 「青馬=あおうま⇔白馬」と当て字
 天暦の頃
 村上天皇の時代
  ↓↑
 藤原定家
 「いつしかと
  春のけしきに
  ひきかへて
  雲井の庭に
  いづる白馬」
  ↓↑
 『源氏物語
 「少女=乙女」の巻
 藤原良房が私宅で
 白馬節会を行った例に倣うとし
 光源氏が自邸の
 二条邸
 で行っている
  ↓↑
 正月7日
 「白馬」を
 「紫宸殿(シシンデン)
  =豊楽院(ブラクデン)」
 の前庭にひき出し
 天覧後
 宴を開く儀式
 邪気払いの中国の故事
  ↓↑
 初め「鴨の羽の色・大伴家持
 で「青色の馬」であったが
 後「白色」が重んぜられ
 「白馬」・・・となった・・・?
  ↓↑
 青色=白色+灰色・・・?
 青色は元々が「緑色」・・・だろう
  ↓↑
 濃い青みを帯びた「黒馬」
 青毛の馬
 淡青色や淡灰色の馬
 あおごま=青駒
 年初の節会 (せちえ) の引き馬
  ↓↑

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  ↓↑
 『関羽』・『呂布』の「赤兎馬
 『項羽』の「青白い愛馬『騅(スイ・烏鵻)』」
 ・・・「青白い馬」・・・「蒼褪めた馬」・・・
 ヨハネ黙示録第6章第8節・・・
  ↓↑
 「四面楚歌」・・・「垓下の戦い」・・・
 紀元前202年12月
 楚漢戦争
 項羽の楚軍
 と
 劉邦の漢軍
 との間で
  垓下
 (安徽省
  蚌埠市・・・蚌埠(ホウフ・略称=蚌・別名=珠城)
        蚌=ボウ・どぶがい(溝貝)
          からす(烏・鴉)貝
          はまぐり(蛤・浜栗)
  固鎮県)
 を中心に行われた戦い・・・
ーーーーー
 蚌=虫+丰
   虫+三+丨
   虫+一+丨
   イシガイ科の貝名
   烏貝(からすがい)
   溝貝(どぶがい)
   マルスダレガイ科の貝名
   蛤(浜栗・はまぐり)
   異体字「蜯=虫+奉」
   ↓↑
   丰=フウ・ホウ・ボウ
     草が豊かに繁茂
     様子(ようす)
     貌(すがた)
     容貌(かたち)
     みめよい
     ふっくらとして
     美しい顔かたち
     妖艶
 ↓↑
 鷸蚌之争(イツボウのアラソイ)
  漁夫の利
  「鷸」は水鳥の鴫(鷸・しぎ)
  「しぎ」と「どぶ貝」が
   争っている間に
   漁師が両方とも捕獲
 ↓↑
 老蚌生珠(ロウボウセイシュ)
  普通の親から
  優れた子が生まれること
  年老いてから子を授かること
  「蚌」=ドブガイ
  「老蚌」=老人
  ドブガイが
  美しい真珠を生み出す
 ↓↑
 鷸蚌(イツボウ)の争い
  無益な争いをしている間に
  第三者に利益を
  横取りされ共倒れになる愚かさ
  「鷸=しぎ=鴫」
  「蚌=はまぐり=蛤・浜栗」
  鴫と蛤が争って
  両方とも漁師に捕獲された故事
 ↓↑
 有事法制
 有事
 (武力攻撃や侵略を受けた場合)
 に際し
 自衛隊の行動を規定する法制
 ↓↑
 日本の「有事法制
 「いずれかの国が
  日本と周辺の
  制空権
  制海権
  を確保した上で
  地上軍を日本本土に
  上陸侵攻させ
  国土が戦場と化す
  事態を想定した法制」
ー↓↑ーーーー
 (内閣官房所管分)
 武力攻撃事態等における
 我が国の
 平和と独立
 並びに
 国及び国民の安全の確保に関する法律
 (武力攻撃事態対処法)

 武力攻撃事態等における
 国民の保護のための措置に関する法律
 (国民保護法)
 ↓↑
 武力攻撃事態等における
 アメリカ合衆国
 軍隊の行動に伴い
 我が国が実施する措置に関する法律
 ↓↑
 武力攻撃事態等における
 特定公共施設等の利用に関する法律
 ↓↑
 (防衛庁所管分)
 武力攻撃事態における
 外国軍用品等の
 海上輸送の規制に関する法律
 ↓↑
 武力攻撃事態における
 捕虜等の取扱いに関する法律
 ↓↑
 自衛隊法の一部を改正する法律
 ↓↑
 国際人道法の
 重大な違反行為の処罰に関する法律
 ↓↑
 (外務省所管分)
 条約
 日本国の
 自衛隊
 と
 アメリカ合衆国軍隊との間における
 後方支援
 物品
 又は
 役務の相互の提供に関する
 日本国政府
 と
 アメリカ合衆国政府
 との間の協定を改正する協定
 ↓↑
 1949年8月12日
 ジュネーヴ諸条約の
 国際的な武力紛争の
 犠牲者の保護に関する
 追加議定書(議定書Ⅰ)
 ↓↑
 1949年8月12日
 ジュネーヴ諸条約の
 非国際的な
 武力紛争の
 犠牲者の保護に関する
 追加議定書(議定書Ⅱ)
ー↓↑ーーーー
 有事関連三法
 有事関連七法の関係
 平成15年
 通常国会で成立(有事 関連三法)
 平成16年
 通常国会で成立(有事関連七法)
 国民保護法
 武力攻撃事態等における
 国民の保護のための仕組み
 武力攻撃
 ↓↑
 我が国への武力攻撃が
 差し迫っていると判断した場合
 政府は事態を認定して
 公表する
 ↓↑
 武力攻撃事態等
 ↓↑
 武力攻撃予測事態
 及び
 武力攻撃事態
 ↓↑
 武力攻撃予測事態
 ↓↑
 武力攻撃事態には至っていないが
 事態が緊迫し
 武力攻撃が予測されるに至った事態
 ↓↑
 武力攻撃事態
 ↓↑
 武力攻撃が発生した事態
 又は
 武力攻撃が発生する
 明白な危険が
 切迫していると
 認められるに至った事態
 ↓↑
 緊急対処事態
 ↓↑
 武力攻撃の手段に準ずる手段を用いて
 多数の人を殺傷する行為が発生した事態
 又は
 当該行為が発生する
 明白な危険が切迫していると
 認められるに至った事態で
 国家として
 緊急に対処する
 ↓↑
 国及び国民にとり
 急迫不正の侵害があり
 通常の憲法秩序では
 国及び国民の
 安全を確保できない非常事態に際して
 憲法の一部
 または全部を停止し
 最終的に
 国及び国民の安全
 憲法秩序の回復を図る
 国家緊急権の
 非常事態立法の一
 ↓↑
 憲法上の論拠
 有事に際して憲法の停止
 日本では規定していない
 ↓↑
 有事法制の整備
 憲法の枠内での
 法制整備が実施された
 日本有事法制
 憲法
 一部
 または
 全部を停止する権能を
 許容していない
 憲法の枠内で
 非常事態に対処する権能を
 憲法学的には
 非常事態権
 非常措置権
 ともいうが
 日本憲法
 非常事態権の保有すら明記していない
 ↓↑
 有事の場合の
 国家の指針について
 解釈に委ねられる
 ↓↑
 有事における
 国家の指針・行動
 ↓↑
 憲法
 ↓↑
 国民の権利(人権)
 自由の制約根拠
 自衛隊武力行使等の根拠
 ↓↑
 有事法制合憲
 有事法制による
 国民の人権制約根拠を
 ↓↑
 「公共の福祉」
 と解する
 ↓↑
 自衛隊武力行使
 個別的
 自衛権をその根拠とする
 ↓↑
 憲法9条1項2項
 解釈
 「自衛権
  は認めるが
 「自衛戦争」は否定する
 ↓↑
 「自衛権
 も
 「自衛戦争」も認める
 ↓↑
 有事法制
 わが国に対する
 武力攻撃が発生した場合
 の法制
 ↓↑
 自衛隊の行動法制
 米軍の行動法制

 自衛隊と米軍の行動に
 直接かかわらないが
 国民の
 生命
 財産
 を保護する法制
 ↓↑
 有事法制
 有事への対処を優先するために
 私権を制限することや
 憲法の平和主義との整合性で
 2003年(平成15年)6月13日
 武力攻撃事態
 対処
 関連3法が成立
 ↓↑
 国民保護法等
 2004年
 6月18日公布
 9月17日施行
 有事の危機対応における
 基本的
 法整備がなされ
 民間防衛の実施体制に向け
 環境整備を進め
 有事法制
 と
 自然災害
 人災も包括
 ↓↑
 有事法制の歴史
 第3次朝鮮戦争の勃発が懸念
 1963年
 「三矢研究
 「昭和38年総合防衛図上演習」
 多くの法律を
 短期間で有事対応に変更
 クーデター研究・・・
 研究に従事した自衛官らは
 「文書管理不備」で処罰
 ↓↑
 ソ連軍侵攻懸念
 1978年
 栗栖弘臣
 統合幕僚会議議長発言
 現行では有事に際して
 自衛隊
 「超法規的措置
 をとらざるを得ない
 と発言し
 罷免
 ↓↑
 周辺事態と
 日米同盟と有事法制
 ↓↑
 冷戦崩壊
 1994年
 日米両国の間で
 ソ連崩壊後も
 極東において
 軍事優先政治の
 北朝鮮
 朝鮮半島有事の
 日米協力
 1996年
 日米防衛協力の指針
 (日米ガイドライン
 見直し検討
 ↓↑
 見直しが進められた背景としては
 ↓↑
 日米安全保障条約を基盤とした
 安全保障
 ↓↑
 アメリカにとって
 日本が
 極東の
 安全保障を果たすことで
 アメリカの
 極東での防衛負担を軽減させ
 中東に対する戦略を強化
 日米同盟を
 極東から
 地理的に限定されない
 周辺事態で
 協力体制
 ↓↑
 日米両国の
 安全保障協力を
 地球規模の同盟として位置付け
 極東地域における
 同盟関係の域を超え
 広域な
 国際秩序の安定のための
 安全保障協力
 1998年
 日米新ガイドライン
 周辺事態における
 日米両国の具体的な協力
 周辺事態法成立
 周辺事態に対応し
 日米が共同作戦により
 後方支援活動できる体制
 ↓↑
 2001年までの
 北朝鮮不審船事件
 アメリカ同時多発テロ事件
 2002年
 武力攻撃事態法
 武力攻撃事態関連3法
 提出
 ↓↑
 2003年
 有事関連3法成立
 ↓↑
 「国家として基本的な対処要領に係る法制」
 「自衛隊が行動することに係る法制」
 「米軍が行動することに係る法制」
 有事関連3法
 「武力攻撃事態法
 (武力攻撃事態等における
  我が国の
  平和と独立
  並びに
  国
  及び
  国民の安全の確保に関する法律)」
 2003年
 有事の
 国民保護を定める
 武力攻撃事態等における
 国民の保護のための
 措置に関する法律の提出
 国民保護法制は
 先送り
 ↓↑
 武力攻撃事態法
 第14条
 内閣総理大臣
 が兼務する
 武力攻撃事態
 対策本部長
 は地方公共団体
 総合調整権に基づき
 地方
 民間(指定公共機関)
 により協力を求める
 (但し
  法律上の
  服務義務を持たない)
 この調整権に基づく
 措置が
 実施されない場合
 指示権を行使し
 地方公共団体の首長に
 対処措置の実施を指示できる
 この内閣総理大臣の指示権は
 服務義務のともなうもので
 大規模な武力攻撃災害にも
 対応
 政府の強い関与を確立
 武力攻撃事態法
 ↓↑
 内閣総理大臣
 避難誘導
 避難住民の受け入れ等で
 直接執行権を行使可能
 避難が
 確実に実施されるための措置も規定
 ↓↑
 発動は
 武力攻撃が予測される状況で
 実際の攻撃を受けなくても
 発動可能
 在日米軍
 先制攻撃を行っただけでも
 有事法制の束縛
 防衛大臣
 攻撃を予想しただけで
 土地や人、物の強制収用が可能
 強制収用した成果の
 米軍など外国軍への提供の制限も
 明文化されていない
 目的は
 戦時体制への官民の動員
 ↓↑
 有事関連法
 武力攻撃事態対処関連3法
 平成15年(2003年)6月6日
 成立
 ↓↑
 「武力攻撃事態対処関連三法」
 ↓↑
 安全保障会議設置法の一部を改正する法律
 (平成15年法律第78号)
 武力攻撃事態等における
 我が国の平和と独立
 並びに
 国及び国民の安全の確保に関する法律
  (平成15年法律第79号)
 2003年6月13日
 公布・施行
 2015年9月
 改正・施行
 「武力攻撃事態等
  及び
  存立危機事態における
  我が国の
  平和と独立
  並びに
  国及び国民の
  安全の確保に関する法律」
 ↓↑
 武力攻撃事態
 「存立危機事態」
 有事において
 国や地方公共団体
 必要な措置を取ることを明記
 国(内閣総理大臣)が
 地方公共団体(の長)に対して
 必要な措置を執行出来ると明記
 ↓↑
 国や地方公共団体が取る措置に対し
 国民は協力をするよう
 「努める」としている
 ↓↑
 有事関連7法
 平成16年(2004年)6月14日成立
 有事関連7法
 ↓↑
 武力攻撃事態等における
 国民の保護のための措置に関する法律
 (国民保護法)
 ↓↑
 武力攻撃事態等における
 アメリカ合衆国の軍隊の行動に伴い
 我が国が実施する措置に関する法律
 (米軍行動関連措置法)
 ↓↑
 武力攻撃事態等における
 特定公共施設等の利用に関する法律
 (特定公共施設利用法
 ↓↑
 国際人道法の重大な違反行為の
 処罰に関する法律
 (国際人道法違反処罰法
 ↓↑
 武力攻撃事態における
 外国軍用品等の
 海上輸送の規制に関する法律
 (海上輸送規制法
 ↓↑
 武力攻撃事態における
 捕虜等の取扱いに関する法律
 (捕虜取扱い法)
 ↓↑
 自衛隊法の一部を改正する法律
 (自衛隊法一部改正法)
 ↓↑
 条約
 日米物品役務相互提供協定(ACSA)改正
 ジュネーブ諸条約第1追加議定書
 (国際的武力紛争の犠牲者の保護)加入
 ジュネーブ諸条約第2追加議定書
 (非国際的武力紛争の犠牲者の保護)加入
 関連性のある法律(議員立法
 特定船舶の入港の禁止に関する
 特別措置法
 (主として北朝鮮船舶を想定)
 ・・・だから・・・ドウ・・・
ー↓↑ーーーー

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 ↓↑
 司馬 遷(セン)
   ・・・親項羽・・・
      降雨・紘宇⇔「八紘(あめのした)を
             掩(おお)ひて
             宇(いえ)にせむ」
       紘=大綱・綱領・横綱・注連縄
      「兼六合以開都,掩八紘而為宇
      (六合〈くにのうち〉を兼ねて
       もって都を開き
       八紘〈あめのした〉をおおいて
       宇〈いえ〉となす)」
 ↓↑
 紀元前145/135年? ~紀元前87/86年?
 前漢の歴史家
 ↓↑
 『史記(シキ)』=『太史公書(タイシコウショ)』
 の著者
 「太初暦」の制定
 漢 武帝
 太初元年(紀元前104年)
 改暦採用の
 太陰太陽暦
 ↓↑
 姓 司馬
 名 遷
 字 子長
 周代の記録係である
 司馬氏の子孫
 父
 「太史令」
 「司馬 談」
 ↓↑
 『太史公書(タイシコウショ)』
 「太初暦」の制定
 漢 武帝
 太初元年(紀元前104年)
 改暦採用の
 太陰太陽暦
 通史   『史記』の執筆
 ↓↑
 二十四史
 司馬遷  『史記
 班固   『漢書
 范曄   『後漢書
 陳寿   『三国志
 房玄齢等 『晋書』
 沈約   『宋書
 蕭子顕  『南斉書』
 姚思廉  『梁書
 姚思廉  『陳書』
 魏収   『魏書』
 李百薬  『北斉書』
 令狐徳棻等『周書』

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 ↓↑
 魏徴
 長孫無忌-等『隋書』
 ・・・長(おさ・ながい・チヨウ)
    孫(まご・ソン)
    無(なし・ム)
    忌(己心・いむ・イ)
    等(竹寺・ひとしい・トウ)
 ↓↑
 李延寿  『南史』
      『北史』
 ・・・李(木の子・すもも・リ)
    延(のばす・エン)
    寿(ことぶき・ジュ)・・・尋ねる
 ↓↑
 劉昫-等・・・昫=日+句(勹口)
      887年~946年
      五代十国時代後晋の政治家
      字 耀遠
      涿州帰義県(河北省保定市雄県)の人
      太常博士・翰林学士
      明宗の時に兵部侍郎・端明殿学士
      『旧唐書
    劉(卯金刂・リュウ)=刘=文+刂
                 亠+乂+刂
      殺す・連ねる・並べる・斧・鉞・鉈
    昫(日句・暖か・ク・キョウ)
      煦=めぐむ・あたためる・あたたかい
        日向ぼっこ・・・保っ子・干っ子・棒ッ子?
    等(竹寺・ひとしい・トウ)

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 ↓↑
 欧陽脩
 宋祁   『新唐書
 薛居正等 『旧五代史』
 欧陽脩  『新五代史』
 脱脱等  『宋史』
 脱脱等  『遼史』
 脱脱等  『金史』
 宋濂等  『元史』
 張廷玉等 『明史』
 ↓↑
 二十六史
 柯劭忞等 『新元史』
 趙爾巽等 『清史稿』
 ↓↑
 その他
 班固・・・32年(建武八年)~92年(永元四年))
      字 孟堅
      父 班彪
      弟 班超
      妹 班昭
      子 班雄(長男)
        班勇(三男・字は宜僚)?
      甥 班勇?
   「両都賦」著作・・・両譯(訳・と・わけ・ヤク)
   「漢書」・・・
   の妹「班昭」は
   「曹世叔」に嫁したが、夫の死後
   「和帝」・・・倭綴・話定・和出意
    の詔により
   班固 の『漢書』未完成部分
   「八表」
   「天文志」・・・天(あま)の
           文(ふみ)の
           志(こころざし)=士の心
           士=十+一=壹を拾うイチ
             足+壱=タリのはじめ
        天橋立(あまのはしだて
        京都府宮津市宮津湾と
        内海の阿蘇海を南北に隔てる
        全長3.6キロメートルの湾口砂州
        日本三景の一

        小式部内侍(60番)
       『金葉集』雑上・550
        大江(おほえ)山
        いく野の道の 遠(とほ)ければ
        まだ文もみず 天の橋立
 ↓↑ ↓↑
   の稿を引き継いで、完成させた
 劉珍
 蔡邕等  『東観漢記』
 中華民國版
      『清史』
 中国版  『清史』
 ↓↑
 家系
 「堯・舜」時代~
 歴史・天文を司る家系
 秦
 恵文王らに仕えた
 「司馬 錯(サク)」・・・錯=金+昔
 その孫で
 「白起」の部下として
 「長平の戦い」に従軍した
 「司馬 靳(キン)」・・・靳=革+斤
 その孫の
 始皇帝時代の
 鉄鉱を管理する役職
 「司馬 昌(ショウ)」
 「司馬 昌」
 の子は
 「司馬 無澤(ムエキ)」
   ・・・澤=氵+睪(尺)
         睪=罒+幸(土\)
          =罒+土+䒑+十
          =罒+十+一+䒑+十
           うかがい見る
           罒=網目・・・㓁
           幸=手枷(手械)
             足枷(足械)
            (あしかせ=桎)
           又・廾・++・卄・卝
      夭(若)+屰(逆)
      夭折     逆族
      羊=丷+三+丨
        ハ・丅・干・一・二・三
        ハ・丅+「二二𠄞𠄟𠄠」 
        ⺶・⺷・⺸
        𦍌・𠁥=羊=𢆉・・・¥
        羋・羌
 ↓↑
 家系
 「堯・舜」時代~
 歴史・天文を司る家系
 秦
 恵文王らに仕えた
 「司馬 錯(サク)」・・・錯=金+昔
 その孫で
 「白起」の部下として
 「長平の戦い」に従軍した
 「司馬 靳(キン)」・・・靳=革+斤
 その孫の
 始皇帝時代の
 鉄鉱を管理する役職
 「司馬 昌(ショウ)」
 「司馬 昌」
 の子は
 「司馬 無澤(ムエキ)」
   ・・・澤=氵+睪(尺)
         睪=罒+幸(土\)
          =罒+土+䒑+十
          =罒+十+一+䒑+十
           うかがい見る
           罒=網目・・・㓁
           幸=手枷(手械)
             足枷(足械)
            (あしかせ=桎)
           又・廾・++・卄・卝
      夭(若)+屰(逆)
      夭折     逆族
      羊=丷+三+丨
        ハ・丅・干・一・二・三
        ハ・丅+「二二𠄞𠄟𠄠」 
        ⺶・⺷・⺸
        𦍌・𠁥=羊=𢆉・・・¥
        羋・羌
 ↓↑  ↓↑
    譱=善・𦎍
      羊を供して神判するのが善(譱)
      隹を供して神判するのが讐(讎)
      復讐
      吉・誩に従ひ、羊に従ふ
        義・美と同意
      獄訟に用いる
      獣+誩(キョウ)
      両言で原告と被告の当事者
      盟誓
      獣=畄+一+口+犬
        ⺍+田+一+口+犬
       =兽
 ↓↑    ↓↑
      羴=生臭い
      羼=
      聶=ささやく
      厽
      品
      矗
      猋=つむじかぜ=旋毛風・旋毛
      森
      𥫮=
      磊=
      舙=
      嚞=
      皛=
      姦孨垚
      蟲贔譶麤鱻鑫厵
      驫犇畾毳焱晶芔
      轟灥
      惢
 ↓↑ ↓↑   
   六畜(馬・牛・羊・鶏・犬・豚)
      睾・睪+α
      圛・驛・釋・嶧・曎・懌
      檡・斁・譯・歝・繹・醳
 ↓↑ ↓↑
   羊⇔善・義・美・羨(羨望)・躾
     羔・羞・羚・着・羣(群)
     羲・羮・羶・羸

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 ↓↑
 「司馬 無澤(ムエキ)」
 漢市の長官
 子の
 「司馬 喜」
 五大夫の爵位
 「司馬 遷」
 の祖父
 ↓↑
 父 「司馬 談」
 は漢王朝に仕え
 元封までの約30年間
 太史公
 ↓↑
 一族代々の墓
 左馮翊夏陽県竜門
 (陝西省韓城市芝川鎮)で誕生
 師 「孔安国」
   「董仲舒
 歴史書『春秋』は
 「公羊学派」
 政治の根本原理を体現と主張
 ↓↑
 22歳頃
 郎中に任命され
 皇帝・武帝
 の侍従を担う仕事を行った
 ↓↑
 元鼎五年(前112年)
 武帝
 秦の徳公の居城
 雍で五帝を祀り
 黄帝も登った
 「崆峒」を訪れ
 西の会寧へ至った
 ↓↑
 元封元年(前110年)
 武帝は封禅の儀式に向け
 18万の騎兵を各地に派遣
 付き従っていた父
 「司馬談」が病に倒れ
 先祖の事業を
 「司馬遷」へ引き継ぐよう命じ
 第二の孔子となれと言い残し
 死亡
 ↓↑
 「司馬遷
 は封禅の儀式に加わり
 泰山での封禅には参加
 その大典の内容を
 「封禪書」に纏めた
 ↓↑
 元封二年(前109年)
 武帝は各地を巡り
 山東半島や泰山を訪れた
 瓠子という場所で
 黄河が決壊し
 武帝は百官に薪を背負わせ
 修復工事を行い
 「司馬 遷」
 付随し、後に
 「河渠書」を書かせた
 ↓↑
 元封三年(前108年)
 「司馬遷
 太史令の官職継承
 ↓↑
 元封四年(前107年)
   五年(前106年)
 武帝巡遊に従い、各地を廻った
 ↓↑
 太初元年(前104年)
 「太初暦」の制定
 「史記」執筆着手
 「太初暦」
 年初を
 「夏の暦」の春正月に固定
 二十四節気を採用
 各月の朔日・十五日・月末を確定
 暦制定には30~40名の人間が関わり
 公孫卿・児寛・壺遂・唐都・落下閎
 ら専門家も参加
 「司馬遷
 も「壺遂が律暦を制定した」と述べ
 主導的役割を果たした・・・
 ↓↑
 太初元年
 西域征伐
 将軍
 「李広利(武帝の寵妃、李夫人の兄)」
 太初四年(前101年)
 匈奴
 「且鞮侯 単于
 当初こそ従順な態度
 翌年
 漢の使者を迎えた匈奴の態度は高慢
 単于の母への脅迫的工作露見
 漢と匈奴の関係は悪化
 ↓↑
 天漢二年(前99年)
 武帝は派兵決断
 「李陵」が単独行動を願い出
 5000の歩兵出陣許可
 敵地深くに入ってが
 3万を超える敵軍と遭遇し包囲され
 投降
 ↓↑
 武帝は「李陵」の投降に激怒
 臣下に処罰を下問
 皆が「李陵」を非難する中
 「司馬遷」は
 「李陵」彼を弁護
 ↓↑
 陵事親孝
 與士信
 常奮不顧身以殉國家之急
 其素所畜積也
 有國士之風
 今舉事一不幸
 全軀保妻子之臣隨
 而媒糱其短
 誠可痛也!
 且陵提步卒不滿五千
 深輮戎馬之地
 抑數萬之師
 虜救死扶傷不暇
 悉舉引弓之民共攻圍之
 轉鬥千里
 矢盡道窮
 士張空拳
 冒白刃
 北首爭死敵
 得人之死力
 雖古名將不過也
 身雖陷敗
 然其所摧敗亦足暴於天下
 彼之不死
 宜欲得當以報漢也
 『漢書』「李廣蘇建傳」
 ↓↑
 「司馬遷」が言う「過去の名将」を
 武帝は対匈奴戦で功績が少なく
 「李陵」を救援しなかった
 「李広利」の非難と受け止め
 武帝の命で彼は獄吏に連行
 ↓↑
 天漢三年(前98年)
 武帝
 逃げ延びた部下に恩賞を与え
 「李陵」を救う手を打ったが
 匈奴の捕虜が
 「李陵」
 が匈奴兵に
 軍事訓練を施しているとの
 フェイク(fake)ニュース(news)
 がもたらされ
 武帝は激怒し
 「李陵」の一族を全て処刑
 「司馬遷」は
 「宮刑(腐刑)」に処された
 ↓↑
 司馬遷は自害せず
 『史記
 完成使命で生きる選択をした
 ↓↑
 父・景帝⇔子・武帝
   景行天皇⇔武・建
   倭男具那・小碓命・・・古事記日本書紀
   景行天皇の第3皇子
   母 播磨稲日大郎姫
    (はりまのいなびの・・・貼交埜異名比之?
         おほいらつめ)於保意等詰?
   幼名 小碓(をうす)命
      倭男具那(やまとおぐな)
      大和
       多字加羅(談)を
        具える尹の
        阝(大里・大郷
          阜・呂・㠯・𠂤)=β
 ↓↑
 太始元年(前96年)六月
  ・・・太の始・・・・・・太安万侶の始め?
     元年(前96年)・・・9+6=壱拾ゴ
     ・・・「願・頑・虤・含・玩」念・撚
     六月・・・陸突・陸主記・理句解通?
 「司馬遷
 は大赦で釈放
 「中書令」任命
 宮中の文書
 皇帝奏上文書
 皇帝の詔接受の
 「中書令」は
 「太史令」よりも重要なポストだったが
 「宦官」の役職・・・

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 ↓↑
 太始二年(前95年)~3年間
 「司馬遷」は武帝の巡遊侍従
 太始四年(前93年)
 「司馬遷」は
 「孔子」の
 六芸
 「詩・書・礼・楽・易・春秋」
 大別の文化的伝統を重視し
 六芸こそが
 歴史的事象
 人物評価
 の基準とした
 ↓↑
 「利を求めず
  時流に迎合しない」
 ↓↑
 「司馬遷」の信念
 「中立的立場から歴史の必然を見る」
 「大所から鑑定・選別・判断を行う
  識の発揮」
 ↓↑
 家系的繋がりと同様に
 思想の繋がりを重視し
 「孔子」を「世家」に含めた
 ↓↑
 「大義名分」
 よりも
 「事実」・・・
 ↓↑
 『史記』は
 「私情」を排し編集態度・・・
 ↓↑
 『史記』「太史公自序」十一条
 「司馬談
 が太史公に就いた後に
 「司馬遷」が生まれたと記録
 前145/135年の両生誕説では
 後者・・・
ーーーーー
 ・・・2013年09月・独立愚連隊に連結・・・
  ↓↑
 「わびしげに見ゆるもの、六、七月の午未の時」は・・・?ねん

  ↓↑
 「古事記字源のページの表紙・音楽・動画」
https://haa98940.wixsite.com/mysite
  ↓↑  ↓↑
 「古事記字源のページ・2016/12~」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
  ↓↑  ↓↑
 本日の「干支歴」
http://meisiki.bake-neko.net/
  ↓↑  ↓↑
 旧「HP」の移転先
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm

 

ゼイタクなクルミ豆腐・・・分相応の生活・・・?

 3067日目・文字霊日記
 毎日食べてはイケない・・・午の日だけ・・・OK!?
  ↓↑
 午の日・・・コロナの日・・・分相応の生活・・・?
  ↓↑
 経済産業省・キャリア官僚2人が
 およそ550万 円
 新型コロナ対策の家賃支援給付金詐取で
 桜井某(28)
 新井某(28)
 容疑者逮捕・・・
 ・・・オマエラだけじゃァないだろう・・・
  ↓↑
 鹿島建設東北支店の元幹部
 宮本卓郎元営業部長(54)
 東日本大震災の復興事業で
 下請け業者から得た
 2億2000万円を申告せず脱税
 仙台国税局に告発
  ↓↑

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 ・・・「コロナの物語」・・・?
 「2015年・人民解放軍上級幹部の報告書」
 「第三次世界大戦=ヴィルス・生物戦争」・・・
  ↓↑
 「コロの物語」・・・小柳徹
  ↓↑
 コロの物語
 昭和32年4月1日~昭和33年12月30 日放送
 コロ
 どおしてなの?
 益田 喜頓・・・?
 いつも美味いものを喰ってるとな、・・・
 ↓↑
 コロ
 1948年08月18日
 ~
 1969年03月24日
        大運1965年6月(16歳)壬戌印綬
  戊┏子(壬 癸)正財・偏印 病⇔己酉偏財
 ┏庚┗申(戊壬庚)正官・印綬 胎⇔丁卯食神
 ┗乙 亥(戊甲壬)  ・劫財 死⇔戊戌正財
  壬 午(丙 丁)印綬・偏財長生⇔戊午正財
    申酉空亡
  ↓↑
 「やんぼ、にんぼ、とんぼ」・・・黒柳徹子
 トンボには惚れた
  ↓↑
 「クルミ豆腐」・・・「こんち午の日」

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  ↓↑
 白物家電・・・便利な機能機器を省いて
       「本来の機器機能」のみを残し
       「後進国貧困層」にも
        買えるような値段にした・・・K国人のセールス
        ・・・で、スグ、ぶっ壊れる・・・
        でも、ヤツラは品物の有難味を味わったのさ・・・
        しあわせだってか・・・
        いや、オレッチも頑丈なモノが造れないんだ
        ・・・???・・・       
 ・・・1970年代、日本では売られていない・・・?
    ではなく、ボクが日本では見たことのない「電子レンジ」
   「東芝電気製品」がアメリカの家庭で使用されていた
    ・・・見るからに頑丈そうな「電子レンジ」・・・
   ↓↑
   レンジの価格・・・昭和37(1962)年
            国産第1号が発売(価格 54万円)
            昭和51(1976)年
            低価格のファミリータイプ(価格 6万円)
   ↓↑
   ボクはそれが「日本製」だと聞いてビックリした・・・
   一体、価格はイクラ・・・?
   「精工・シチズンの腕時計」は
   「日本」よりも安い値段で売られていた・・・?
   「ダットサン」は有名な「日産の小型のトラック」
   カメラは亜米利加人はダレもが「コダック」・・・
   一眼レフの高級品は「made In Japan」・・・
             冥土は日本の中・・・デス?
   日本人にとっても
   手に入りそうもない「高級カメラ」が
   亜米利加で安く簡単に手に入る
   で
   亜米利加人にコレは「日本製」だと云っても
   信じないのだ・・・
   トルコでドイツから乗っていた
   中古のフォルクスワーゲンを駐車していたら
   ドアをカネ出すから交換してくれって・・・
   彼の使用している
   「フォルクスワーゲンのドア」
   が潰れていたが・・・
   今現代のアフリカ・・・
   アフリカ・・・上水道も下水道も無いが
   片手にスマホ
   電話回線を知らなくても無線通話、無線動画・・・
   東南アジアの村々には
  「pc・パーソナル・コンピュータ」
   が溢れて、情報もワンサカ・・・
   ↓↑
   1970年代当時
   亜米利加と日本では一般庶民の「所得格差」が大きかった
   360円~300円=1ドル=1dollar・・・
   亜米利加では
   当時の渡米日本人にとっては「100円感覚」・・・
   ナゼならアメリカでは
  「タバコの値段」が「50セント」前後だったからだ・・・
  日本でもタバコは50~70円前後だった
  50セント⇔50円
  1弗⇔100円
  感覚を超えたハンバーグなんて口にしたことはない・・・
  だが、当時の渡米、在米の「日本人」の頭の中の計算は
  360円~300円=1ドル=1dollar・・・
  亜米利加でアルバイトで一日働けば「10ドル~20ドル」
  日本円に換算すれば「3000円~6000円」・・・
  当時の日本人の一般サラリーマンの給料は・・・
  ブログ記事の検索では
ーーーーー
 by「経営研究センターJC
   経済年表抜粋」
 ↓↑
 大卒 ・初任給、公務員上級・給与?
 1968年:27600円
 1969年:31000円
 1970年:36100円・・・1970年
 1971年:41400円
 1972年:47200円
 1973年:55600円
 1974年:72800円
 1975年:80500円
 1976年:94300円(大卒初任給)
 1977年:101000円
 1978年:105500円
 ↓↑
 by「年次統計 ver 1.0」
  年       大卒初任給  現代の価値に換算?
 1973 (昭48) 62,300円  159,017円
 1972 (昭47) 52,700円  157,052円
 1971 (昭46) 46,400円  151,795円
 1970 (昭45) 39,900円  143,568円・・・1970年
 1969 (昭44) 34,100円  138,641円
 1968 (昭43) 30,600円  137,670円
 ・・・ナニが基準なんだか「現代の価値に換算」?
 ↓↑
 円相場(1ドル/円)
 昭和45年(1970)
 ↓↑
 リチャード・ミルハウス・ニクソン
 (Richard  Milhous  Nixon)
 1913年1月9日~1994年4月22日
         1991年11月(78歳)
               大運辛酉劫財
 壬┏子(壬 癸)食神・食神 死⇔甲戌偏財
 癸┗丑(癸辛己)傷官・傷官 墓⇔戊辰偏印
 庚 寅(戊丙甲)  ・偏印 絶⇔戊寅偏印
 壬┗午(丙 丁)食神・偏官沐浴⇔戊午偏印
午未空亡
 ↓↑
 アメリカ合衆国
 第37代大統領
 共和党(Republican Party)
     Grand Old Party
     シンボル 象・elephant
     elephant in the room
    「見て見ぬ振りされた問題」?
    「フレるな、ダマレッ、ホットけ」
    「タブーな話題や重大な問題」
    「知っていても知らんふり」
 在任 1969年1月20日~1974年8月9日
 ↓↑
 ニクソン・ショック(ドル・ショック)・・・?
 (Nixon  Shock)
 1971年7月15日第一次
 1971年8月15日・日曜日・第二次
 (日本標準時1971年・昭和46年8月16日)
 アメリカ合衆国連邦政府
 金ドルの固定比率
 1 オンス=35ドル
 米ドル紙幣と
 金の兌換を一時停止
 為替レートを是正し
 主要国は対等に競争すべし・・・
 ↓↑
 1ドル=360円~
 1973年
 変動相場制に移行
 ↓↑
 昭和46年(1971) 1ドル=314円
          円の切り上げ
 ↓↑
 昭和47年(1972) 1ドル=301円
 昭和48年(1973) 1ドル=280円
 ↓↑
 1971年8月15日・日曜日・第二次
 ニクソン声明
 「…もはやアメリカが
  片手を背中に縛られたまま
  競争する必要はない…」
 「…過去7年間
  毎年1回は
  通貨危機が起きている
  通貨危機
  一体
  誰が利益を得たのか・・・ダレなんだか・・・?
  労働者でも、投資家でも
  富の真の生産者でもない
  受益者は
  国際通貨の投機家
  彼らは
  危機で栄える故に
  危機を起こす…」・・・・今も昔も「キキ」か?
 「…最近数週間
  投機家たちは
  アメリカのドルに対する
  全面的な戦争を行ってきた
  …そこで私は
  コナリー財務長官に
  通貨の安定のためと
  合衆国の最善の利益のためと
  判断される額と状態にある場合を除いて
  ドルと金
  ないし
  他の準備金との交換を
  一時的に停止するように指示した
  …この行動の効果は
  言い換えれば
  ドルを安定させることにある
  …IMFや我々の貿易相手国との
  全面的な協力の下で
  我々は
  緊急に求められている
  新しい国際通貨制度を構築するために
  必要な諸改革を求めるだろう…」
 金塊の移動と蓄積がナゼ・・・海には何万ともあるのに
 「軟らか・重い・希少」
 金(gold・aurum)=原子番号79の元素
           第11族元素に属する金属元素・・・第11族
 軟らかく、可鍛=展延(ductility)、重(オモイ)からナッ・・・
 「ミダ―ス王」のハナシか・・・
 「ミクロネシア・ヤップ島の石貨=ファー=パーラン
  白色、淡褐色の結晶石灰石
  20センチメートル、大きいものでは直径4メートル重さ5トン」
ー↓↑ーーーー
 第二次世界大戦後の通貨の枠組み
 ブレトン・ウッズ体制の解体・終焉
 インフレで
 ドルの信認が揺らぎ
 ドルの切り下げが避けられないことで
 アメリカは通貨危機に直面
 ドル防衛で
 アメリ国益を損なわず
 欧米各国
 日本との
 多国間調整を目的にした
 1971年12月に
 ドルの切り下げを容認
 新しい固定相場で
 「スミソニアン体制」がスタート
 再びドル不安が再燃し
 各国とも
 固定相場制を維持することができず
 1年3ヶ月後に
 変動相場制に移行
 ↓↑
 1944年
 「ブレトン・ウッズ協定
 米国
 ニューハンプシャー州
 ブレトン・ウッズ
 に連合国44か国の各国代表終結し締結
 大戦後の
 世界経済の運営
 国際通貨の管理
 アメリカ本土は戦場とならず
 各国への経済的支援で
 軍事特需で富を蓄積した
 アメリカが
 戦後の国際金融体制の中心に位置し
 ドルだけが金と交換できる通貨
 他の国は
 ドルとの交換比率を固定し
 為替相場を固定することによって
 国際貿易を円滑にし
 経済活動を
 活発化させるコトを目的した
 ↓↑
 国際金融体制=ブレトン・ウッズ体制
 アメリカが
 圧倒的な生産力で
 世界各国へ輸出し
 稼いだ貿易黒字で
 蓄えた大量の
 金準備で支えられ
 各国は
 「ブレトン・ウッズ体制」の枠で
 国際貿易の利益を享受
 通貨発行量が希少金属である
 金の保有量に制約される
 「金本位制」であったが
 戦後は
 金・ドル体制
 金為替本位制
 とも呼ばれ
 実質的に
 金=ドル
 を基軸とした
 ↓↑
 西欧各国が次第に経済力を回復
 日本も高度経済成長で
 アメリカの手持ちのドルが
 海外へ流出し
 1960年代
 金と交換できるドルの
 絶対的価値が揺らぎ始めた
 ↓↑
 各国が定めた
 通貨の固定為替レートは
 アメリカを除いて
 主要な交戦国が
 戦争で著しく疲弊していた
 世界経済状況を前提に
 定められたレートで
 大戦直後
 世界の金保有額の
 三分の二が
 アメリカに集中し
 ドルの金交換に基づく
 固定相場制を原則とした
 「IMF体制」で成立
 戦災から復興した国々の
 経済発展で
 固定為替レートは
 各国の経済力・競争力から
 乖離した状況になり
 50年代
 各国の
 ドルに対する為替レートが
 英ポンド
 仏フラン
 は切り下げられ
 1961年3月
 西独マルク
 が
 1ドル=4マルク
 が5%切り上げられ
 通貨調整
 60年代後半
 ドルが凋落・・・
 ↓↑
 1950年代
 アメリカの海外への
 軍事支出、政府援助、政府借款が
 貿易収支の黒字分以上を占め
 1960年
 ドル危機の懸念状況
 アメリカ自体の
 ドル交換に応じる金保有の割合は
 1948年の3.8倍
 ~
 1960年
 には1.6倍に減少
 1965年
 ベトナム戦争介入
 財政赤字
 インフレーション
 国際収支の赤字幅拡大
 1966年
 外国のドル準備が
 アメリ財務省保有する
 金保有額を上回り
 1968年頃から
 「ドル危機」を潜在的要因とし
 フランの通貨不安が顕在化
 1969年
 8月
 フランは11.1%切り下げ
 9月
 マルクは9.3%切り上げ
 ↓↑
 1971年
 アメリカのドルは
 現実の経済力・競争力よりも
 高い為替レートになり
 対ドルの為替レートは
 現実の経済力・競争力よりも
 低い為替レートになり
 アメリカは国際貿易において
 赤字
 海外に流出したドルは
 貿易黒字国の
 対外準備として蓄積され
 インフレーションを加速させた
 米国が
 ドル債務を負う形で
 ドルを供給し
 ベトナム戦争もあって
 ドルと交換できる
 金の準備額が不足
 ↓↑
 1971年
 4月
 貿易収支が初めて赤字
 8月
 フランス
 8月13日
 イギリス
 が
 アメリカに対して
 30億ドルの金交換を要求
 金・ドル交換の停止決定
 アメリカ政府は
 金とドルがリンクした
 「通貨体制(金・ドル本位制)」
 の維持困難と判断し
 国内の事態急変を避けるため
 10%の輸入課徴金を掛け
 物価・賃金を
 90日間凍結し
 その期間に
 各国との多角的調整をして
 ドルを
 アメリ
 にとって一番望ましい形に切り下げた
 ↓↑
 1971年8月15日
 ニクソン大統領声明
 欧州各国は
 まだ
 外国為替市場が開いておらず
 即閉鎖を決定し
 23日に再開するまで1週間は
 市場を閉会
 日本は
 外国為替市場が開いており
 ドル売りが殺到し
 日銀がドル買いに走り
 日本の外貨準備高が
 100億ドルを超え混乱
 が、その後も
 市場を閉鎖しなかった
 西欧各国とも対応がばらばら
 西独は2ヶ月前に
 変動相場制に移行
 仏は二重相場制
 英は上限変動相場制
 オランダなど
 ベネルクス3国は
 域内は固定相場制
 域外は変動相場制
 調整はバラバラ
 ↓↑
 日本
 10日余りは固定相場制を維持
 1971年8月27日
 外貨準備高が
 125億ドルに達し
 この日の閣議
 翌28日から
 為替相場
 1ドル=360円
 に上下1%の変動幅の制限枠を撤廃
 変動相場制に移行決定
 1ドル=360円
 は終わった
 360円~342円~340円~320円
 前後に推移
 ↓↑
 ドルの為替レートの変更
 マルク
 と
 円
 の切り上げが世界経済に影響した
 ↓↑
 by 「ウィキペディアWikipedia)」
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・スミソニアン協定が締結され
 日本が
 1ドル=308円
 で固定相場に戻った
 1971年12月
 を底に景気は上昇期に入った・・・
ーーーーー
 ニクソン
 1971年の金とドル交換停止は
 「日本人につけをまわすため」
 1969年の沖縄返還交渉で
 佐藤首相が約束した
 「日米繊維問題での誠意ある行動」
 繊維製品の輸出を
 包括規制する約束を
 実行しなかったことで
 「日本の首相にわざと恥をかかせた」
 とした発言・・・
 ↓↑
 ニクソン
 電撃的な中国訪問発表
 も事前に
 日本側に連絡が無かった
 ↓↑
 アメリカが
 ソ連と中国との
 緊張緩和を
 図ろうとしたのは
 欧州
 アジア
 で封じ込め政策遂行が
 経済的に不可能なった・・・
 ニクソンドクトリン
 沖縄返還
 戦略兵器削減
 ベトナム戦争停止
 輸入制限
 新経済政策
 などは
 アメリカの衰退で
 アジアでの軍事的削減=経費削減?
 ↓↑
 ・・・
 亜米利加も中国も台湾・KK・・・
 そしてロシアも英国も仏も・・・
 支配者は
 「重根瞑」の敵対者である・・・
 瞑=目+冥
   目+冖+昗
   目+冖+日+六
   目+冖+日+亠+八
   昗=日+六(亠八)
     ショク
     ソク
     ひかげる・かげる(陰る・景・翳る・曀)
     異体字「昃・𣅶」
     昃=昼過ぎ・太陽が西に傾く
     曀=日+壹
       エイ・イ
       くもる(曇る)     
 瞑(くらい)
 瞑(つぶる)
 瞑(つむる・つぶる)
 瞑坐=目を閉じて座ること
 瞑する=目を閉じる
 瞑想・瞑目(めいもく)目をつぶること
 ↓↑
 佇立瞑目(チョリツメイモク)
  ひどく辛い悲しみで
  目を閉じたまま立ち尽くすこと
  直立不動・・・standing at attention
 「佇立」=長時間たったままでいること
 「瞑目」=目を閉じること
 ↓↑
 瞑目沈思(メイモクチンㇱ
  目を瞑って深く考えること
 ↓↑
 以て瞑すべし
  もはや未練なく死すべし・・・?
ーー↓↑ーー
 山本 周五郎
 清水 三十六(さとむ)
 1903年6月22日
 山梨県北都留郡初狩
 (大月市初狩町下初狩
 1903年6月22日
 ~
 1967年2月14日(63歳没)
      大運1958年6月(55歳)壬子傷官
 ┏癸卯(甲 乙)食神・偏財絶⇔丁未偏官
 ┗戊午(丙 丁)印綬・偏印病⇔壬寅傷官
  辛巳(戊庚丙)  ・正官死⇔己酉偏印
  甲午(丙 丁)正財・偏印病⇔庚午劫財
   申酉空亡     觜宿⇔昴宿
ーーーーー
 ・・・ヤマモトのオジイちゃん・・・
 イイねッ・・・アリアさんの朗読・・・
 「落葉に雨の音を聞く、隣りは恋のむつごとや~~~」
 ・・・
 「もろかずら
  落ち葉を
  何に拾いけん
  名は睦(むつ)ましき
  かざしなれども」・・・?

 

五障三従・・・五章(語証・誤詳)纂(簒)重・・・

 3066日目
 モミのキ・・・「粟・蟐・樅・籾・紅絹」の記・紀
 ↓↑
 モミ(樅・学名Abies firma)=マツ科モミ属の常緑針葉樹
    もみ=樅=木+従(彳+䒑(丷+一)+ト+人)
     樅=木+從
       木+彳+从+龰
       木+彳+人+人+龰
       从=䒑
       人人=䒑
         =艸=「屮+屮」の隷書の変化
            「艹=サ」と同型
             屮=左手・・・又=右手
             屮=てつ・芽生え
          艸・艹・艹=++・艹
       ・・・丱=丩+|┛(Y)
             「ユ」の字の右立て
             「𠁡」の字の上逆転              
             「卜」の古字(古文)=𠁡・𠁢
              𡖄=タ+𠁡=ガイ=外
              𠁡=卜=𠁢
          丱=あげまき・おさない・カン・ケン
      「青草人=青艸人=青从人」
          艸=++=十+十=Ⅹ+Ⅹ
             =20=二十・弐拾・二足=廿=念
                  Ⅹ=カイ
           =grass・straw・herbs・weeds= 艸
    従=彳+䒑+龰
      彳+丷+一+龰

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    ↓↑
 阿諛曲従(アユキョクショウ)
  相手に気に入られようとして
  相手の言うことを何でもきいて
  機嫌、言動をとること
 「阿諛」は気に入られようと振る舞う
 「曲従」自分の意思を曲げて従う
    ↓↑
 阿諛追従(アユツイショウ)
 相手に気に入られるために
 お世辞を言い
 相手の言うことに従ったりして
 機嫌を取ること
  「阿諛」=機嫌を取ること
  「追従」=逆らわずに従うこと
    ↓↑
 婉娩聴従(エンベンチョウジュウ)
  人に優しく素直で逆らわずに従うこと
  「婉娩」=上品で素直
  「聴従」=相手の言動に素直に従うこと
  「婉娩として聴き従う」
  ↓↑
 合従連衡(ガッショウレンコウ)
  その時の利益と損害など
  状況に合わせ
  国や組織などが離合集散
 「従」=縦
 「合従」=秦に対して
       周辺六カ国が
       縦(南北)に同盟
       を組んで対抗
      「蘇秦」の策略
 「衡」=横
 「連衡」=秦と組み
       秦と各国が
       横(東西)に同盟
      「張儀」の策略
    ↓↑
 鶏尸牛従(ケイシギュウショウ)
  「蘇秦」が
  「韓王」に
  「秦の属国になるより
   小国だとしても
   一国の王のほうがよい」
   と説得
    ↓↑
 五障三従(ゴショウサンジュウ)
  女性の五つの障害と
  女性に従わされていた三つのこと
  「五障」=梵天帝釈天
       魔王、転輪聖王
       仏
       女性がなれない
    ↓↑
  「三従」=女子の一生は
       親に従い
       夫に従い
       子に従うべき
 ↓↑
 親子は一世=親子の関係は現世だけ
 夫婦は二世=夫婦は前世と現世
          現世と来世にまたがる
  ↓↑
 主従は三世=主従関係は
       前世・現世・来世の三世
       にまたがる
 ↓↑
 心の欲する所に従えども
 矩を踰(のりこ)えず=
  心の思うままに行動しても
  道徳から外れない
 ↓↑
 郷に入っては郷に従え
 ↓↑
 三従(サンジュウ)=
   女性が守るべき三つの道
   父に従い
   夫に従い
   子に従え
ーー↓↑ーーー

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 「揉み字」って・・・平仮名のコトだろう・・・平手+五本指
           もみじ=毛美知・母美知
           もみじ=紅葉・黄葉・栬・椛=
               アサノハカエデ(麻の葉楓)
               ホソエカエデ(細枝楓)
               サトウカエデ(砂糖楓)
               五芒形だが・・・七芒形
               五芒=ゴボウ=牛蒡・五榜
               七芒形だが手の平の「パぁ」に似る
               グウ ・チョキ・パァ
               にぎる・はさむ・ひらく
               カジカエデ(梶楓)
               ウリカエデ(瓜楓)の葉は
               三浅裂、五裂もする・・・なるほど
               ミツデカエデ(三手楓)は
               三出複葉
               ヒトツバカエデ(一葉楓)
               マルバカエデ(円葉楓)は
               一葉である・・・樋口一葉
               ハウチワカエデ(羽団扇楓)は
               掌状に九~十一浅裂・中裂
               イロハモミジ(伊呂波紅葉)は
               掌状に深く 五~九裂
           かえで=槭・槭樹・楓・鶏冠木・蛙手・蝦手
               代替の手⇔代出・替出・換出・変出?
           Maple(メイプル、メープル)

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 「揉み手」って・・・両手を擦り合わせて頼むこと・・・?
           胡麻を擂(す)る
           擂り鉢に煎(炒)った胡麻を入れ
           ゴマ擂り棒で扱ぐ・・・
           ・・・擂った胡麻が飛び散ってクッ付く?
           ・・・擂り鉢の内側の
              溝(漊・渠・涜・洫・畎・みぞ)に
              潰された胡麻がくっつく
              胡麻を潰してドウスル・・・
              香ばしさが増す・・・
              胡麻油・セサミオイル・Sesame oil
              胡麻油(あぶら)を絞り出す手順・・・
              いりごま→すりごま→ねりごま
              煎(炒) 擂    練 
              胡麻油の健康利用法って?
              肉体、精神の健康とはバランス
              当然、老化とは
              対バランス
              全体バランス
              の
              崩れと偏りである
              護摩の灰・胡麻の蠅
              客の持ち物を盗み取った泥棒
              高野聖を装い
              弘法大師護摩の灰だと云って
              押し売りして歩いた者(詐欺師)
              免罪符を売ったのは
              1515年
              ローマ教皇レオ10世
              が売りだし「贖宥状(ショクユウジョウ)」
              胡麻の蝿・・・
              ゴマとハエの見分けがつかぬモノ
              スリ(掏)・・・
              ナンデモ過度の摂取・搾取はダメです・・・
           諂(へつら)って自己の利益を謀る
           媚びる
           頼みごと、謝罪
           媚(こ)びたり
           おもね(佞・阿)ったりする時の
           手つき・手の仕草
           扈従(コジュウ・コショウ)
           幇間(ホウカン)
           太鼓持ち(たいこもち)=男芸者
                      =太夫衆⇔御伽衆
 ・・・左右の両手を擦り合わせて懇願、要請、御許しを乞う・・・コジキ?

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 ↓↑
 「寛文(カンブン)事件・・・(1661~1673)の「伊達騒動
 (1671年5月.6日)」・・・漢文・巻分・・・ジケン・・・字懸?
 ↓↑
 仙台伊達藩の
 幼君
「亀千代(伊達 綱村)」の
 後見政治を
 伊達 兵部少輔 宗勝
 田村 右京大夫 宗良
 が行っていた
 ↓↑
 1670年
 寛文十年
 涌谷 伊達氏
 と
 登米 伊達氏
 の
 「知行地」・・・知る「行文」の
         地=土+也=十一也
              壱拾壱也
           拾(足)の位置也・・・?
 境争いの裁定を
 「伊達 宗重(涌谷邑主)」
     元和(げんな)元年・・・元の和の元念(撚)?
          十一月・・・壱拾壱解通?
          五日生・・語比章(証・照)?
   元和=後水尾天皇時代( 1615年~1624年)
     元和= 後漢の章帝 劉炟時代(84年~87年)
     元和= 唐の憲宗 李純時代(806年~820年)
 が幕府に訴え
 ↓↑
 1671年
 寛文十一年二月
 審問開始
 寛文十一年
    三月
  二十七日
 江戸徳川幕府
 大老
 酒井忠清
 邸で
 審問後
 原田甲斐
 ↓↑
   ・・・原田 甲斐⇔ゲンデン カイ
            元 傳  化意(解)?
          斐=非+文・・・文にアラズ
                  紋様・絵柄
            非+亠+乂
            非+亠+丿
            ヒ
            あや
     生き甲斐
       甲斐=効(かい・コウ)・結果の効果・価値
       甲斐甲斐しい
       甲斐性(カヒショウ)
       家族を養っていく経済能力
      年甲斐
     言い甲斐
        ↓↑
       萋斐貝錦(セイヒバイキン)
        小さな失敗を誇張したり
        無いことを
        事実であるかのように言って
        他人を罪に陥れること
       「萋斐」=美しいアヤ模様
       「貝錦」=美しい貝の模様の錦
            美辞麗句で
            人を陥れる
 ↓↑    ↓↑
      甲斐性が無い
      甲斐なき星が夜を明かす
     年甲斐もない
     年齢に相応しくなく
     愚かである
 ↓↑ 
 原田甲斐    諱  宗輔(むねすけ)             
         幼名 弁之助・雅楽
         慶安一年(1648)年 評定役
         寛文三年 奉行職就任 
 伊達宗重・・・・通称 安芸・・・あき=安芸・秋?
         遠田郡(宮城県)
         涌谷(わくヤ)領主
         幼少の陸奥仙台藩
         伊達亀千代(綱村)の
         後見役
         原田甲斐と対立
 を斬殺
 甲斐も討たれた
 甲斐の
 四人の男子
 および嫡子
 帯刀宗誠
 (妻 茂庭定元の娘 辰)
 の男子2人は切腹
 母妻娘は
 お預け
 原田家断絶

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 ・・・???・・・
 2015年11月・記録既済の「甲斐」・・・あれから7年・・・
  ↓↑
  疾=疒+矢
   シツ
   とく
   とし
   にくむ
   はやい
   やましい
   やむ
   病気
   なやむ
   苦しむ・心配する
   わずらう
   欠点・くせ・悪癖・傷
   ねたむ・うらむ
   はやい・すばやい・とし・はげしい
   はやく・すばやく・とく・はげしく
   いそいで
   ↓↑
   疾(とく)
   疾(とし)
   疾(にくむ)
   疾(はやい)
   疾(やまい
   疾(やましい)
   疾(やむ)
   ↓↑
  悪疾=質の悪い病気
  怨疾=恨んで憎むこと
  感疾=病気になること
  忌疾=嫌って憎むこと
  急疾=素早いこと
  痼疾=長く完治しない病気・持病
 ↓↑  ↓↑
 烟霞痼疾(エンカのコシツ)
  自然を愛でる気持
  隠居し自然と生活すること
 「烟霞」は「モヤ(靄)・かすみ(霞)」
 「痼疾」は長い期間患っている病、持病
 「煙霞痼疾」
 ↓↑
 河魚腹疾(カギョのフクシツ)
  腐敗し国などが崩壊していくこと
 「腹疾」は内臓疾患
 「魚」は内臓から腐る
 ↓↑
 膏肓之疾(コウコウのシツ)
  難病
  夢中になりすぎて、やめられないこと
 「膏」は心臓の下の部分
 「肓」は横隔膜の上の部分
  心臓の下の部分や横隔膜の上の部分は
  体の中の奥にあって
  薬も鍼も届かない
 「病、膏肓に入る」
 ↓↑
 高材疾足(コウザイシッソク)
  優れた才能と能力
 「高材」は優れた才能
 「疾足」は速く走る
 「高才疾足」
 ↓↑
 山藪蔵疾(サンソウゾウシツ)
  大人物の器量
  すぐれた人物でも弱点がある
  藪=立派な人物のたとえ
  蔵=隠す・しまい込む
  疾=害になるもの
    虫や毒蛇
    山や藪は害虫や毒蛇ですら
    隠し包み込む
   「山藪疾を蔵す」
 ↓↑
 疾足先得(シッソクセントク)
  能力ある人が
  劣った人よりも先に獲物を手にする
 「疾足すれば先得す」
 ↓↑
 疾風に勁草を知る
  困難にあった時
  人の真価がわかる・・・吹き飛ばされるかも・・・?

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 ・・・???・・・諏訪に逃げた出雲のヒト・・・

f:id:naiegorou:20210625014103j:plain

 長野県
 岡谷市諏訪市諏訪郡 下諏訪町
 2市1町の境界線
 にまたがる湖
 冬の
 御神渡り(おみわたり)
 ワカサギ釣り
 湖がほぼ氷結しても
 東側7ヵ所の湖底源泉の湖上は氷結せず
 湖上に7ヵ所の穴が開いて見えた
 湖底の源泉は
 七ツ釜と称されていた
 長野県 信州一の「諏訪」湖・・・
 北緯36度02分57秒
 東経138度05分07秒

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 ↓↑
 鹿児島
 諏訪之瀬島・・・諏訪(すわ)
         之(の・シ)
         瀬(水に頼る)
         島(しま・トウ)=嶋・嶌・嶼・㠀
 北緯29度36分41.2秒
 東経129度42分11.3秒
 未明に噴火
 (2021年6月23日)
 鹿児島県
 吐噶喇(トカラ)列島
 火山島
 人口は79人
 世帯数は44世帯
 (2018年3月31日現在)
 十島村では
 中之島に次いで
 二番目に大きい島
<photo src="v2:2550878083:l">
 日本鹿児島県鹿児島郡十島村
 吐噶喇列島
 北緯29度36分41.2秒
 東経129度42分11.3秒
 「諏訪之瀬島
ーーーーー
 ・・・

いィ~のちナガシとも、コィ~せよオウナ・・・姁・嫗・媼・・・

 3065日目・文字霊日記
 ゴンドラの唄・・・ブランコの唄・・・志村 喬
  ↓↑
 「その日」は「いつ来るのか」ってか・・・?
 短気なニンゲンには耐えられないコトバ・・・
 「笠折半九郎」・・・喧嘩には理窟があるのさ・・・
  ↓↑
 「紀伊家の中小姓
  折笠半九郎
  親友
  畔田小次郎
  藩主
  徳川頼宣紀州和歌山藩主」

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  ↓↑
 「今すぐ」・・・緊急を要する時期はヒトそれぞれだが・・・
 はぁッ、そうですか・・・
 「プチブル急進主義者」ッテ、「政治問題」・・・?
 「急がは、迂回(まわ)れ」ッテか・・・「日和見主義」?
 ・・・死に目に会っているのは日常茶番だけれど・・・
 ブラジルで一日の死亡者が5000人?・・・志望者じゃないョなッ!
 (2021年6月20日 BBCニュース
      3月26日の91%・ パンデミック開始以降
  感染者17,702,630人
  死者496,004人が報告)
 「コロナ」が蔓延している時期なのに・・・
 金儲けイヴェント(event)の
 「オリンピック(Olympic)」ですか・・・
 デモ・・・
 「おまつり」だしッ・・・息抜き・空気抜き・・・ダシ
 ・・・山本周五郎の小説「笠折半九郎」には
 チョットした言葉遣いの言い回しが元で争いが起こるコトを
 散々述べているけれど・・・「コト」は重大になってしまう・・・
 ↓↑
 で、
 「笠折半九郎」の殿様、エライッ!・・・
 でも殿様、周五郎おじいちゃんの「小説」のように
 本当に家来の「命」が第一だったんだか・・・?
 若い時の「水戸黄門さま」も夜な夜な巷に出ては
 「試し切り」・・・彼の殿様もネッ・・・
 時代が血なまぐさい時代だったのはタシかだけれど・・・
 今現代の「人間社会の状況」は・・・
 うまい具合に成仏出来れば幸いだけれど・・・

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 ↓↑
 徳川 頼宣(とくがわ  よりのぶ)
 慶長七年三月七日
 1602年4月28日
 ~
 寛文十一年一月十日
 1671年2月19日
      大運1664年11月(62歳)辛亥食神
  壬寅(戊丙甲)正財・正官 死⇔辛亥食神
 ┏甲辰(乙癸戊)正官・劫財 衰⇔庚寅傷官
 ┗己巳(戊庚丙)  ・印綬帝旺⇔癸亥偏財
  庚午(丙 丁)傷官・偏印建禄⇔戊午劫財
   戌亥空亡
 ↓↑
 改名 長福丸(幼名)
    頼将・頼信・頼宣
 別名 南龍公(尊称)・紀伊頼宣
 神号 南龍大神
 戒名 南龍院殿従二位前亜相顗永天晃大居士
    南龍院殿二品前亜相永天晃大居士
 徳川家康の十男
 母 側室の養珠院(お万の方)
 ↓↑
 紀州徳川家の祖
 常陸国水戸藩
 駿河国駿府藩
 を経て
 紀伊国
 和歌山藩
 八代将軍
 徳川吉宗の祖父
 初任官 常陸
 子孫も代々常陸介に任官
 ↓↑
 慶長十四年(1609年)
 肥後熊本藩
 加藤清正の次女
 八十姫と婚約
 翌年9月徳川家より結納使として
 頼宣の伯父
 三浦為春(生母の兄)が
 清正の領国肥後国に下って納幣
 同年、駿府藩50万石に転封
 ↓↑
 慶長十六年(1611年)
 家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見
 兄の徳川義直と共に東寺まで出迎え
 人質として
 加藤清正に預けられた
 ↓↑
 慶長十九年(1614年)
 大坂冬の陣で初陣
 翌年
 大坂夏の陣
 天王寺・岡山の戦いで後詰
 ↓↑
 元和三年正月二十二日(1617年2月27日)
 加藤清正の次女
 八十姫(瑤林院)を正室
 ↓↑
 元和五年(1619年)
 紀伊国
 和歌山55万5千石に転封
 紀州徳川家の家祖
 ↓↑
 慶安四年(1651年)
 「慶安の変
 「由井正雪」が
 「頼宣」の印章文書を偽造し
 幕閣(松平信綱・中根正盛)
 謀反の疑いをかけられ
 10年間紀州へ帰国できなかった
 ↓↑
 同時期
 明の遺臣
 「鄭成功(国姓爺)」
 から日本に援軍要請
 頼宣は積極的であった・・・
 将軍家光の叔父で頼宣の兄
 尾張藩
 「徳川義直」が死去
 格上の将軍家綱が幼少で
 徳川一族の長老となり
 幕政を司る幕閣には煙たい存在
 「慶安の変」の疑いは晴れ帰国
 寛文七年(1667年)
 嫡男・光貞に跡を譲って隠居
 寛文十一年一月十日(1671年2月19日)
 死去・享年70
 ↓↑
 「鄭成功(国姓爺)」に関する援軍要請
 「西国に将軍の身内は自分一人ゆえ
  西国大名の全指揮権を名代として
  自分に与えてくれれば
  日本の面子を充分に立てて来る」
 と乗り気・・・
 「出兵しても日本に利がない」
 と反対・・・?・・・伝承
 ↓↑
 和歌山
 「若(弱)の浦」と呼ばれた
 和歌に読まれ
 「和歌の浦」という地名になった
 「岡山→和歌山」
 ↓↑
 1890年(明治二十三年)9月16日
 エルトゥールル号遭難事件
 ↓↑
 ・・・小児結核で病院に隔離されていた時・・・
 オフクロがコッソリ、ボクを連れ出して
 「キング・コング
 を観に映画館に連れて行ってくれたけれど・・・
 オフクロやオバが
 「命みじかし」と涙を流してくれていたが
 ボクにはその意味が解らなく
 看護婦さんや、付き添いの小母さんの目を盗んでは
 息を切らしながら、同室の男の子や女の子と
 病院の廊下を走り回っていた・・・
 それらの友達が・・・イナクなって
 新しい友達が入院してくる
 ・・・あれは「最期の映画鑑賞」ではなかった・・・
 小樽の親戚の楽器屋の伯母さんが
 雑誌「少年」を贈ってくれ
 初めてベットの上で「鉄腕アトム」をみた・・・
 「火星探検・ケチャップ大尉・レンコーン大尉・その妹キャべッヂ」
 ・・・アニメと漫画(光文社発行の単行本)でのストリーが
 若干違う・・・
 そして掲載されていた
 雑誌「少年」の「鉄腕アトム」と
 単行本「鉄腕アトム」の「フキ出し」のセリフが違う
 ・・・「幽霊製造機」では海外自由渡航
    「日本国ロボット法」に違反する・・・
    「台詞=せりふ=科白=ことば」の改作は
    「文字文化」の伝統で出版社だけではないけれど・・・
 そして、オフクロが買ってくれた
 「グリム童話・黄金のトリ・黄金のリンゴ」
 の本を文字でヨンだ・・・
 不思議なことに物語の終わりに
 「お母さま方へ」
 との仮名と漢字混交文の注釈が記されてあった
 どうやら子供に質問された時の
 「子供に朗読する大人たちへの
  モノガタリ事情の理不尽な箇所の・・・身分格差?
  虎の巻きアドバイス
 だったようだけれども・・・童話自体が改作されていた・・・
 ・・・元々は伝聞、伝承だったから・・・
 ハナシはコロコロと変わる・・・
 そして時代の権力者による改作は何時の時代でも・・・
 「近畿財務局の赤木俊夫氏の赤木ファイル」・・・
 ・・・「赤木圭一郎」は
 「霧笛が俺を呼んでいる」だったけれど・・・
 「The Call of the Fog-horn」・・・
 英語のタイトル・・・カッコイイ・・・イカスぜッ・・・
 あれって、「1960年7月9日公開」・・・
 15~21・・・「Uチャンの乾分」でなくてヨカッタかも・・・
 ↓↑
 「乾分=ある人の支配下にあって服従する者」=子分?
  乾=龺+乞
    十+日+十+𠂉+乙
  異体字
  乹=龺+乚(乙)
  亁=十+旱+乞
    十+日+干+𠂉+乙
    カン
    ケン
    かわかす
    かわく
    いぬい(戌亥)
    ひ
    ほす
    水分がなくなる(戌亥・北西の河川の源流?)
    水分をなくす
    うわべの・表面上の
    易(エキ)の卦八卦の一つ
    天・天子
    君主・男性などの象徴
    ・・・乾分=戌亥を分割?・・・鮮卑(拓跋)
          北西を(に)分割された君主
    六十四卦の一
    つよい・すこやか・剛健
    いぬい=犬猪=狗猪・戌亥・・・狼+猪(獅子)?
    北西の方角
  坤=坤為地・母・未申・羊猿・羊猱・・・
    南西の方角・・・雲南省方面の「イ族(彝族)」?
    雲南省省都昆明
        省名は雲嶺(四川省との境の山地)
        の南にあることに由来
       「ゾウ(象)」さんの家族の大移動中・・・
 ↓↑
 「八卦
 ☰(乾)(天)
 ☱(兌)(沢)
 ☲(離)(火)
 ☳(震)(雷)
 ☴(巽)(風)
 ☵(坎)(水)
 ☶(艮)(山)
 ☷(坤)(地)
 ↓↑
 父  母(乾☰ 坤☷)
 陰陽二気交合し
 長男長女(震☳ 巽☴)
 中男中女(坎☵ 離☲)
 少男少女(艮☶ 兌☱)
 を生む
 ↓↑
 赤木圭一郎がトンだ・・・
 1939年5月8日・・・?
 ~
 1961年2月21日
     大運1959年11月(20歳)丙寅傷官
 己卯(甲 乙)偏財・劫財建禄⇔辛丑偏官
 己巳(戊庚丙)偏財・正財沐浴⇔庚寅正官
 乙巳(戊庚丙)  ・正財沐浴⇔乙酉比肩
 壬午(丙 丁)印綬・傷官長生⇔壬午印綬
  寅卯空亡      巳→害←寅
 ↓↑
 役者だったから
 1939年5月9日・・・かも・・・?
      大運1960年3月(20歳)丙寅比肩
 己卯(甲 乙)傷官・偏印沐浴⇔辛丑正財
 己巳(戊庚丙)傷官・食神建禄⇔庚寅偏財
 丙午(丙 丁)  ・比肩帝旺⇔乙酉印綬
 甲午(丙 丁)偏印・比肩帝旺⇔壬午偏官
  寅卯空亡      巳→害←寅
  ↓↑
 結核の免疫薬
 「ストレプトマイシン」・・・
 毎日の太腿への注射・・・痛かった・・・
 付き添いの小母さんが注射した後に
 熱いタオルで毎回、腫れて痛くなる腿を揉んでくれた・・・
 で・・・ボクは未だに朝昼晩、食事、トイレ、呼吸している・・・
 「不思議」だけれども・・・

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 ↓↑
 1861年3月
 ロシア皇帝
 アレクサンドル2世
 が発した法律および条令
 法律は農奴制廃止の基本的条件
 ロシア全国を4つに区分
 各地域の実情を考え
 土地分与・義務・義務償却等の条件を確定
 ↓↑
 ロシア女性
 エレーナ
 オスマントルコ
 ブルガリア独立運動
 イタリア
 夫の死
 「その農奴解放(1861)」の「前夜」・・・?

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 ↓↑
 ゴンドラ (足場) =作業用足場の一種
         昇降機構を取り付けたもの
         gondola
 イタリア、ベネチアの運河で使われる平底船
 船首・船尾が反り上がり、船体は細長く
 1本のかいで操る
 ゴンドラ=ヴェネツィアの運河で
      使われている
      幅の狭い手漕ぎ舟
      交通手段
 ゴンドラ=熱気球の人が乗り込む部分
      籠・バスケット
 ゴンドラ=遊園地の遊具で人が乗り込む部分
      開放部のあるものをゴンドラ
      密閉されるものをキャビン
 ゴンドラ=ロープウェイ・リフト
      エレベーター等の
      輸送機械における搬送の器
 ゴンドラ=ゴンドラリフトの略
      箱状・かご状の道具
 ゴンドラ=小売店などで商品の陳列台

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 ↓↑
 ゴンドラの唄
 ↓↑
 作詞 吉井勇
 作曲 中山晋平
 ↓↑
 歌詞はアンデルセン
 『即興詩人』(森鷗外訳)
 の一節を基・・・
 「讀賣新聞」の
 1915年4月29日付に
 ライオン水歯磨の「ゴンドラの唄」への
 協賛広告が掲載され
 「ゴンドラの唄」
 の4番までの歌詞が紹介された
 1916年(大正5年)7月
 楽譜はセノオ音楽出版社から出版

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 ↓↑
 いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
 朱(あか)き唇、褪(あ)せぬ間(ま)に、
 熱き血液(ちしほ)の冷えぬ間(ま)に
 明日(あす)の月日(つきひ)のないものを。
 ↓↑
 いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
 いざ手を取りて彼(か)の舟に、
 いざ燃ゆる頬(ほ)を君が頬(ほ)に
 こゝには誰(た)れも來(こ)ぬものを。
 ↓↑
 いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
 波にたゞよひ波の様(よ)に、
 君が柔手(やはて)を我が肩に
 こゝには人目ないものを。
 ↓↑
 いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、
 黒髪の色褪(あ)せぬ間(ま)に、
 心のほのほ消えぬ間(ま)に
 今日(けふ)はふたゝび來(こ)ぬものを。
 ↓↑
 歌詞の出典
 1915年(大正4年)上演の劇
 『その前夜』の脚本
 ↓↑
 志村 喬
 1905年(明治38年)3月12日
 ~
 1982年(昭和57年)2月11日
       大運1977年2月(71歳)辛未劫財
 乙 巳(戊庚丙)正財・偏印長生⇔壬戌食神
 己┏卯(甲 乙)印綬・偏財 胎⇔壬寅食神
 庚┗戌(辛丁戊)  ・劫財 衰⇔乙丑正財
 壬 午(丙 丁)食神・偏官沐浴⇔壬午食神
 寅卯空亡

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 ↓↑
 C K Fox
 1985年8月14日
       ~
       2014年9月29日
       ~
       2015年3月28日~
     大運2013年11月(28歳)丁亥食神
 乙丑(癸辛己)比肩・偏印 衰⇔甲午劫財
 甲申(戊壬庚)劫財・正財 胎⇔癸酉偏印
   正財・印綬・正官
 乙酉(庚 辛)  ・正官 絶⇔癸卯偏印
 壬午(丙 丁)印綬・傷官長生⇔戊午正財
 if 生時
 丙戌(辛丁戊)?方合辛偏官?
  午未空亡
 ↓↑
 1985年8月12日?
       大運2014年7月(28歳)丁亥偏財帝旺
       大運2024年7月(38歳)戊子正官建禄
  乙 丑(癸辛己)食神・比肩冠帯⇔
  甲 申(戊壬庚)傷官・正官 死⇔
           正官・劫財・印綬 
 ┏癸 未(丁乙己)  ・偏財 墓⇔
 ┗戊 午(丙 丁)正官・正財 絶⇔
    申酉空亡
 ↓↑
 ニューメキシコ州
 サンタフェ
  35°40′N
 105°58′W
ーーーーー
 ???・・・
  ↓↑
 「古事記字源のページの表紙・音楽・動画」
https://haa98940.wixsite.com/mysite
  ↓↑  ↓↑
 「古事記字源のページ・2016/12~」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
  ↓↑  ↓↑
 本日の「干支歴」
http://meisiki.bake-neko.net/
  ↓↑  ↓↑
 旧「HP」の移転先
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm

 

蔃莍(キョウキュウ)の國・・・

 3064日目・文字霊日記
 ふぅ~ンッ、ソウですか・肝っ玉の小さいオトコだな・・・
 ↓↑
 鏹=金+強
   銭の穴に紐を通しまとめたもの
   蔃莍(キョウキュウ)の國・・・
   ユリ(百合)科のタグイ⇔フランス象徴花?
   百合ではなく、青い濃紺の菖蒲(あやめ)でもなく
  「黄色い菖蒲(あやめ)」
   アイリス=あやめ=殺め

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   ヌーベルフランス
  (Nouvelle-France・New France)
   1534年
   ジャック・カルティエ
   セントローレンス川を探検し
   1763年
   パリ条約により
   スペインとイギリスに
   ヌーベルフランスを移譲した時まで
   フランスが
   北アメリカに植民を行った地域

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 ↓↑
 死線を超えたって言ってたな・・・で、アレかッ・・・
 ふぅ~ンッ、ソウですか・肝っ玉の小さいオトコだな・・・
 ・・・笑っちゃうけれど・・・「評論屋」っていうオトコら・・・
 「政治屋」も同類だけれど・・・
 イキテイル枠内でオレも一緒か・・・
 「プチブルまがい」の・・・人生・・・
 「あすなろう」って、「あすはない」だろう・・・?
 「Bonnie and Clyde」は「自由」だったのか・・・
 軍律に縛られた戦場での「軍人・兵士」はどうか・・・
 ↓↑
 自らの「言辞=認識論」の構造を「反省」し、「自己批判」した方がイイ・・・
 意識の根本は生存ラインで「プチブル」で「エゴ」である・・・
 だから「社会協同体」は倫理とか道徳とか礼儀を
 二人以上の人間関係で形成し、護り
 相互の生命活動をしてきた・・・

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 「ダーウィンが来た」は
 食物連鎖のプロセスで残酷な映像が多いが
 ハンバーガーを喰いながら
 どうして「残酷」だと思うんだか・・・
 動物、植物の同族同士での
 「協同生活」は勿論
 時たま天敵同士の協同分担で生命活動をしている・・・
 自然界はアマクはないが、
 自然界の枠内に存在してイキテイル人間社会もアマクはない・・・
 ↓↑

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 「民族国家主義者面」して若者を煽っているヤツ・・・
 「過去の記録記事と写真」が
 「歴史事実の第一証拠資料」だと喚いているヤツ・・・
 「大本営発表の記事」は
 今現在、どんな「意味」があるのか・・・?
 事実報道もあったろうが
 「ウソ記事・ウソ報道」がワンさか・・・
 戦後、GHQの占領(染令)が終わって
 「転向論」が流行った時代があった・・・
 当時、ボクには理解できなかったが
 「信念(?)」を
 曲げないヤツが偉いと言い出したヤツらがいた
 「言論の自由」って何なんだか・・・?
  ↓↑
 「日本戦國時代の殺傷」が終わった・・・?
 初期徳川幕藩政治が確立するプロセス
 ↓↑
 初 代将軍 徳川家康 慶長八年 ​(1603年) ​二月 十二日
            慶長十年 ​(1605年) ​四月 十六日

 第二代将軍 徳川秀忠 慶長十年 ​(1605年)​ 四月 十六日
            元和九年 ​(1623年) 七月二十七日

 第三代将軍 徳川家光 元和九年 ​(1623年) ​七月二十七日
            慶安四年 ​(1651年) ​四月 二十日

 第四代将軍 徳川家綱 慶安四年 ​(1651年) ​八月 十八日
            延宝八年 ​(1680年) ​五月  八日

 第五代将軍 徳川綱吉 延宝八年 ​(1680年) ​八月二十三日
            宝永六年 ​(1709年) 一月  十日

 1637年(寛永十四年)10月下旬から翌年2月下旬
 「思想(切支丹+浪人+農民)改造(転換)」の殺傷戦争?

 「江戸幕府」の「取り潰し政策」・・・「改易(カイエキ)」
 「幕府が大名や旗本の家の転封、世嗣断絶を命じ
  所領領分、知行所の領国を没収」
 ↓↑
 「サラリーマン化」した
 幕藩武士の
 農民からの
 搾取、強制労働
 言論、表現の「御法度」はあったが
 お祭り、芝居、唄、踊りが大好きで
 読み、書き、十露盤、モノ造り大好きな
 「商人・町人・農民」にも
 その「時代の枠内」で
 「自由」らしきものがあった
 家督を継げなく
 管理職にアブレタ武士、浪人も
 学問師範、武芸師範、絵画、造形の
 技術、技芸で身を立てるモノもいた
 逆に「武士本体の組織」は
 その「身分枠内」での規範で
 ガンジガラメ
 (雁字搦め)だった
 ↓↑
    ・・・「元治・元時・源氏・現時・言辞」絡め?
        文久四年二月二十日
       (グレゴリオ暦1864年3月27日)
        讖緯説に基づく甲子革令の年で改元
        元治二年四月七日
       (グレゴリオ暦1865年5月1日)
        慶応に改元
        ↓↑ 
        元治=1864年~1865年までの期間
           孝明天皇徳川家茂
          「乾元用九、天下治也」(周易
        3月  水戸天狗党挙兵
        6月5日(1864年7月8日) 池田屋事件
        7月19日(8月20日) 禁門の変
        8月5日(9月5日) 四国連合艦隊下関砲撃事件
        12月15日(1865年1月12日) 功山寺挙兵
        誕生
        田中義一
       (第5代立憲政友会総裁・第26代内閣総理大臣
        死去
        堀田正睦
        久坂玄瑞真木保臣・宍戸真澂
   雁字搦め=鴈の編隊が飛ぶときの隊形変化の比喩?
        虤の変態の譯部ときの形=羽根つきの虎?
        虎怒貌=㒳犬相齧=兩犬相ひ齧(か)む?
            身動きが取れない
            相撲で四っつに組む
            互いにガップリ
            左右の上手・下手で
            両まわしを取った状態
            両まわしを引いて組み合う
 ↓↑
 そして、都市社会で
 巷の「詐欺・強盗・暴行・殺人」
 は取り締まられた・・・
 ↓↑
 幕末の「尊王攘夷」ですか・・・
 尊王も攘夷も利用した奴がいた・・・
 「尊王」はお飾りだが
 外国事情を知った奴らは慌てた
 「攘夷」では元も子もなくなる・・・
 ↓↑
 1941/12/8未明、ハワイ時間12/7
 ~
 1945/8/15
 戦中、戦前にあった
 戦場、本土空襲、原爆投下
 ソ連満州侵攻、北方領土侵略
 での命の消耗を
 目の前での惨事を経験しながら・・・
 生き残ったヒトビト・・・
 アンタはその子孫・・・
 ↓↑
 マッカーサーは「軍人」であった
 「軍人の仕事」は
 生死を懸けた戦いに勝つコトである
 そして占領軍司令官・・・
 日本占領の「軍政のトップ」
 「政治家の仕事」は
 「休戦・引き分け・武装解除占領政策
 「占領地の治安維持」・・・
 &
 「自国支配者」の利権を護ることだ
 ↓↑
 アンタが思う
 「国家利権」の根拠は何なんだか・・・?
 「国民の民主主義」・・・?
 「民主主義軍隊」では戦争には勝てない・・・
 「民主主義・自由主義」を護るは
 単なるスローガン・・・
 ↓↑
 ダレが「国家・国民」を護っているんだか・・・?
 しかも時間的な経過を振り返って
 「自己反省」している
 今現在の「ヒト」の立場を無視して・・・
 市民社会で犯罪を犯し
 法的制裁を受け
 刑期を終えた「人間」が
 「市民権」を有する「回復市民」になった・・・
 過去、この「市民権回復人間」によって
 犯罪を被った「市民」は
 「市民権回復市民」を
 許せるか、許せないか・・・
 ・・・市民個々人によって是非は異なる

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 しかし、「法律」は
 「社会のマモルベキ規範」であるが
 「べき」である・・・
 「・・・ベキ」とは何か・・・?
 助動詞動の「べし・ should」・・・?
 「~したほうがいい」
 「~しないほうがいい」
 「するべき=すべき」
 どうやら
 「ウィリアム・シェイクスピア
 (William Shakespeare
 (沙吉比亜・莎士比亞・沙翁)」
   1564年4月23日
      4月26日(洗礼日)
   ~
   1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)
 ↓↑
 父 ジョン・シェイクスピア
   スニッターフィールド出身
   皮手袋商人・羊毛の闇商(あきない)
   町長
   市会議員
 ↓↑
 母 メアリー・アーデン
   ジェントルマンの娘
 ↓↑
  Shakespeare
  Shakes=混ぜ合わせて攪拌する
  peare=ペア=pear(西洋梨)
         pair(Twin・一対のモノ・組み合わせ)
         pare(剥がす・剥ぎ取る・毟り取る)
 「舞台を揺るがす者(Shake-scene)」
  紋章記銘
 「Non sanz droict」
  フランス語で
 「権利なからざるべし」
 ↓↑
 『ハムレット(Hamlet)』
 「To be or not to be,
  that is the question.」
 「復讐を、すべきか、すべきでないか」
 「生きるべきか、死ぬべきか」
 「世にある、世にあらぬ、それが疑問じゃ」
 ↓↑
 「推量・当然・適当・意志・ 命令・可能」
  の
 「べし・べき」・・・迷いの躊躇と結果の選択
 「推量(~だろう・~そうだ)
  当然(~はずだ・~べきだ)
  意志(~う(よう)・~つもりだ)
  適当(~未然形・連用形
      終止形・連体形
      已然形・命令形
      べく・べからず
      べく・べかり
      べし・べき
      べかる・べけれ」
   なんだ、「冪(ベキ)=冖+幕」って?
              冖+莫+巾
              冖+艹+旲+巾
              冖+艹+日+大+巾
        異体字
        羃=罒+幕
          罒+莫+巾
          罒+艹+旲+巾
          罒+艹+日+大+巾
          おおう
          かぶせる・おおいかぶせる
          物におおいかぶせる布
          累乗
          同じ数を何度もカケあわせたモノ
 ↓↑
 「Get thee to a nunnery!」
 「尼寺(女子修道院・売春宿)へ行けッ」
  thee=ズィー=you
  nunnery=ナナリィ=七理(里)意
            刈田郡
         蔵王町七ヶ宿町
 ↓↑
 「Frailty, thy name is woman.」
  布令留定 音異ム 得烏鰻・・・カラス&ウナギ?
 「弱き者よ、汝の名は女」
 「脆(もろ)き者、汝の名は女」
 「意志薄弱なモノ、ナンジのナはオンナ」
       模之 難事・何字 音名
  Frailty=フレイルティ
      符例 留綴・・・?

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 ↓↑
 「自虐史観」だってか・・・字逆詞観?
 ダレが「自虐面(づら)」してるんだか・・・
 アンタの「言辞の自由」と
     「選挙権」
     「参政権観」
     「民主主義」・・・「?」
   ・・・謳歌しているよナッ・・・
 は何時から出来るようになったんだか?
 1945年10月4日
 GHQ
 「人権指令」
 によって政治犯が全面的に釈放・・・
 ・・・戦前に「大本教」は大弾圧で壊滅・・・
 「大本教」には
 政治家・海軍・陸軍の士官が信徒として多数参加していた
 「ゾルゲ」なんかよりも明治国家の一大事であった・・・
 「皇道大本」・・・
  なんせ「皇道の大本」だから「国家反逆組織」・・・
 「治安維持法」で
 1921年(大正10年)第一次大本事件・・・「淫祀邪教
                    不敬罪・新聞法違反
 1935年(昭和10年)第二次大本事件・・・治安維持法違反
 「共産党」なんかの弾圧は霞んでしまう
 その弾圧の中で
 「昭和維新・2・26事件」が勃発
 1942年(昭和17年)7月31日
 高野綱雄裁判長は
 「大本は宇宙観・神観・人生観等理路整然たる
  教義を持つ宗教である」
 として
 治安維持法関係は全員無罪の判決
 不敬罪のみ有罪
 1941年12月8日
  日本軍
 マレー半島上陸
 真珠湾攻撃
 太平洋戦争(大東亜戦争
 対米英宣戦布告
    ↓↑
   「トッキュウ」は
    1922年(大正11年
    第一次jC党結成
    逮捕され
    18年間獄中で食って寝転んでいた・・・?
    1945/10/10に出獄・・・「連合軍は解放軍」
    まさに、あの時点では
   「連合軍は解放軍」で
   今現在の
   C、M、KKなどの
   「人民弾圧軍」ではない・・・
    1947年2/1のゼネストを裏切って逃亡・・・
    沖縄県
    国頭方
    名護間切(沖縄県名護市)出身・・・
    ↓↑
   「RI・顧青・三号」は
    1939年11月11日
    再逮捕
    1980年9月3日
    帰国
   「本人の弁明を無視したのは
    ジャーナリズムの初歩原則にも反する」
    1989年8月7日
    腎不全で死去
 ・・・ニンゲンを誣告して貶めるヤツラらは
   「よく眠る」んだろろ・・・

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 ↓↑
 戦後の闇市場
 「民主主義で自由な取引の場所」だった・・・?
 「社会主義者面」
  している
  自分の私欲とエゴを蔓延させているヤツ・・・
 ひょんなコトから組織の役員に選出されて
 なんか「特権」を得たかのように勘違いして威張りだす
 経営者から金で懐柔されて経営陣のスタッフ気取り
 突然手にした成金・・・そして転落の不安・・・
 「プチブル意識」とはy軸・✕軸の0点~の+-目盛り振幅
 「社会主義」を「軍国主義
 「軍国主義」を「社会主義
  と勘違いしていないか・・・?
 「SR国家」の防衛が
 「戦時共産主義」だってか・・・?
 「戦時」+「α」主義
 「戦争」に「主義」はない
 「虐殺」に「主義」はない
 「主義」の為には
 「暴言・暴力・強盗・強奪・殺傷」お構いなし
 「赤い腕章」に逆らうヤツラは
  有無を言わせず切り捨て御免・・・?
 「逆卍腕章・徽章」と
 「五芒星と徽章」
 「紅腕章・鎌&鎚印」・・・ヤル事は一緒?
  タシかに 「造反有理」・・・だまし?
  タシかに 「造反無理」・・・だまし?
  ヤッテいるコトは
 「カミのミココロ?」であるってか・・・?
 「自虐」と
 「自己反省」を勘違いしていないか・・・?
 「自虐」⇔「自愛」・・・
 「自己反省」⇔「他者非難」・・・多謝避難?
        「誹謗中傷」・・・?
 「精神勝利=非認現実敗北」・・・?
 「大本営発表」・・・大本の営(いとなみ)
  事実報道が
  虚偽報道にナゼなっていったのか・・・?
  ナゼ、玉砕死を煽った信奉者が
  生き残って
 「背信、転向論者」
  になっていったのか・・・?
 「思想弾圧の法」
  からの解放・・・拷問→断命からの解放?
  ナゼ、殉教死を煽った宣教師が
  生き残って
 「転び伴天連(バテレン)」
  になったのか・・・
 「現実の肉体的苦痛」
  からの解放・・・拷問→偽装での延命?
 ↓↑
 「自虐」ではない
 「転向=反省の基準」は単純である
 ↓↑
 他者のモノを
 盗むな
 盗むためにウソつくな
 盗むために虐(苛)めるな
 盗むために殺傷するな
ーーーーー
 アインシュタイン 愛因斯坦
 アリストテレス  亜理斯多列氏
 アレキサンダー  亜歴山大
 イエス      耶蘇
 イソップ     伊曾保
 エジソン     愛迪生
 ガリレオ     伽利略
 キュリー     居利
 クレオパトラ   克勒巴都拉・久麗王葩都羅
 コペルニクス   歌白尼
 コロンブス    閤龍
 シェイクスピア  沙吉比亜・沙翁
 シューベルト   叔伯特
 ショパン     肖邦・勺旁
 スターリン    斯達林
 ダーウィン    大因
 チャップリン   卓別麟
 チンギス・ハン  成吉思汗
 トルストイ    杜翁・托爾是泰
 ナポレオン    奈破翁・奈翁
          那破崙・那波列翁
 ニュートン    尼通・紐頓
 バッハ      巴哈
 ベートーベン   貝多芬
 マホメット    馬哈黙
 マルクス     馬克斯
 メンデル     門得尓
 モーゼ      孟西・摩西
 モーツァルト   莫差特・一物有人
 モネ       莫奈
 モンテスキュー  孟徳斯鳩
 リンカーン    林肯・林根
 レーニン     列寧・礼仁
 ワグナー     瓦格納
 ワット      瓦的
ーーーーー
 ・・・???・・・不貞の輩がワンサカ跋扈・・・

 

 

「鉄砲奉行、筑波天狗の水海道の被害を報告」・・・鉄砲奉行ってダレ?

 3063日目・文字霊日記
 ・・・「鉄砲奉行、筑波天狗の水海道の被害を報告」・・・?

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 小栗忠順
 文政十年六月二十三日
 1827年7月16日
 ~
 慶応四年閏四月六日
 1868年5月27日
        1860年3月(32歳)癸卯偏官
 丁┏亥(戊甲壬)比肩・印綬 胎⇔戊辰傷官
 丁┣未(丁乙己)比肩・比肩冠帯⇔丁巳比肩
 丁┣卯(甲 乙)  ・印綬 病⇔癸丑偏官
 丙┗午(丙 丁)劫財・劫財建禄⇔戊午傷官
   戌亥空亡
 ↓↑
 改名 剛太郎、忠順
 別名 又一(先祖の小栗忠政の通称
       又市~又一
       家康に槍で近習
       戦場で「又もや一番槍」から)
 ↓↑
 先祖 小栗 忠政
     天文二十四年
     (1555年)
     ~
     元和二年九月十二日
    (1616年10月22日)
     徳川家旗本
     通称は
     庄三郎
     又市・又一
     小栗吉忠の子
     前妻は天野康景の娘
     後妻は松平信一の娘
     子
     小栗政信、小栗信由、小栗信友
     弟
     小栗吉次
     妹
     倉橋宗次郎の妻
     小栗忠順は直系子孫
 ↓↑
 戒名 陽寿院殿法岳浄性大居士
 墓所 東善寺・雑司ヶ谷霊園・普門院
 ↓↑
 官位 従五位下豊後守・上野介
 江戸幕府
 西の丸書院番
 使番・目付
 外国奉行
 寄合席・小姓組番頭
 勘定奉行
 南町奉行
 歩兵奉行
 講武所御用取扱
 寄合席
 陸軍奉行並
 勤仕並寄合
 軍艦奉行
 寄合
 海軍奉行並
 陸軍奉行並
 勤仕並寄合
 ↓↑
 主君 徳川家慶・家定・家茂・慶喜
 氏族 三河 小栗氏
 父  小栗忠高(旧姓 中川
         中川忠英(飛騨守)の四男)
    新潟奉行は上野介の父が
    安政元年十月(1854年)に着任
    安政二年(1855年)七月二十八日
    病で47歳(1809年・文化六年一月三日生)
    で死んだ土地
    安政三年(1856年)三月二日
    小栗忠順によって
   「法音寺(新潟市西堀通り)」・・・法の音の字?
    の墓地に墓が建てられた
 ↓↑
 母  小栗くに子 (邦子・小栗忠清の娘)
 ↓↑
 妻  正室
    播州林田(姫路市林田町・兵庫県
    藩主
    建部政醇(たけべまさあつ)
    の女(娘)・・・建部の政の醇のオンナ?
    道子
 ↓↑
 子  国子
   (小栗貞雄の妻)
    小栗家の婿養子 
    小栗貞雄=矢野貞雄(旧名)
    豊後国大分県
    海部郡生まれ
    佐伯藩士
    矢野光儀の子
    矢野龍渓の弟
   「郵便-報知新聞」記者
    明治の製薬実業家
    アルボース消毒薬を発明
    扇橋製薬株式会社創業設立
    1898年(明治31年)
    第6回衆議院議員総選挙
    大分県第二区から
    憲政本党公認で出馬当選、衆議院議員
    1900年(明治33年)
    商用にて清国に渡航、上海を経て
    天津滞在中に「北清事変」に遭遇
    籠城期間中に功績があり
    帰国後、明治天皇から一時金を賜う
    産児制限論の
   「社会政策改良実論」著作<img

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 ↓↑
 養子 鉞子
   (よきこ・父 忠高の義弟
    日下数馬=庄次郎・房元・・・?
    の娘で従妹)
    小栗邦子の実弟
    日下数馬=小栗数馬(旧姓)
    ↓↑ 
    元治元年・1864年5月17日
    御鉄砲奉行・・・鉄砲奉行が「日下」
   「日下数馬」
    筑波天狗による
    水海道村々の被害を
    若年寄
    平岡丹波
    に書面を以て報告
    鉄砲箪笥奉行
    鉄砲製造・修理・管理
    二十人扶持
    組頭三名、同心三十名の配下
    後に持高勤め・十人扶持
    文久二年(1862)
   「講武所奉行」配下に移管・・・
    移管2年後の
   「1864年」の「御鉄砲奉行」の名称はナニ・・・?
    江戸幕府旗本
    検索(ウィキペディアWikipedia))の
    旗本に
    日下部 定好
    日下部 正冬
    日下部 宗正
    日下部 宗好
    があれど「日下」は無し
    ↓↑
   (常総(ジョウソウ)市
    下総の国
    旧市名の
    水海道(みつかいどう)
    茨城県常総市
    ↓↑
    茨城県結城市 水海道
    岐阜県岐阜市 水海道
    ↓↑
    2006年1月1日
    石下町編入合併し、同日 市名改称
    平安時代
    坂上田村麻呂
    がこの地で馬に水を飲ませた
   (水飼戸:ミツカヘト)という故事に由来
    ↓↑
   (常総市/デジタルミュージアム
    年表一覧
    年表1
    水海道市史 上/下年表)
 ↓↑
 養子 小栗忠道(鉞子の許嫁)
      ・・・鉞=まさかり・おの・セツ
           axe・broadax・broadaxe
      ・・・鉈(なた)=金+它(へび・宀匕)
               シャ・ジャ・シ・タ
         大型刃物を総称して鉈
    駒井朝温の次男
ー↓↑ーー↓↑
    駒井朝温(こまい ともあつ)
 文政六年(1823年)
 ~
 明治二十九年(1896年)
 旗本(領地 上野国連取等)
 父  駒井 兜十郎
 官位 従五位下山城守・甲斐守
 號  玉虹
 ↓↑
 役職
 西丸目付
 本丸目付
 ↓↑
 万延元年(1860年)三月四日
 老中   松平 乗全
 若年寄  遠藤 胤統
 寺社奉行 本庄 宗秀
 大目付  久貝 正典
 町奉行  池田 頼方
 勘定奉行 山口 直信
 とともに
 「桜田門外の変
 の
 「吟味掛」
 十二月
 「大目付
 文久二年(1862年)八月二十四日
 「小姓組番頭」
 十一月
 「井伊直弼
 のもと
 「安政の大獄
 に関わったとして免職
 元治元年(1864年)六月二十九日
 「歩兵頭」
 七月二十一日
 「大目付」に復し
 八月十一日
 「勘定奉行
 十二月十九日
 再び「大目付
 後
 「講武所奉行並」
 慶応元年
 五月十一日~六月十九日
 「歩兵奉行」
 慶応元年十一月二日
 再度「勘定奉行
 慶応二年(1866年)七月三日
 「大目付
 慶応三年
 一月十九日~一月二十八日
 「陸軍奉行並」
 慶応四年(1868年)三月
 江戸幕府終焉
 明治二十九年
 73歳で死去
  ↓↑
 「駒井 朝温」
  の次男
 「駒井 忠道」=小栗 忠高の義弟
         小栗 邦子の実弟

         小栗 鉞子の許嫁
         小栗 鉞子は
         日下 数馬=庄次郎・房元
            の娘
 は
 「小栗 忠順」の婿養子
 「小栗 忠順」が斬首された翌日
 上野国
 高崎で斬首
 ↓↑
 三男の
 「駒井 忠祥」
 は
 「小栗 上野介」の遺児
 「国子」
 が成人し結婚する迄
 「小栗家」を継いでいた
ー=↓↑ーーーー
 「小栗忠順
 安政七年(1860年
 日米修好通商条約批准のため
 米艦
 ポーハタン号
 で渡米
 地球を一周し帰国
 その後
 フランス公使
 レオン・ロッシュ
 に依頼し
 洋式軍隊の整備
 横須賀製鉄所建設
 ↓↑
 徳川慶喜の恭順に反対
 薩長への主戦論
 慶応四年(1868年)
 罷免
 上野国
 群馬郡
 権田村
 (群馬県高崎市倉渕町権田)
 に隠遁
 閏四月
 薩長軍の追討令に対して
 武装解除に応じ
 養子を差し出したが逮捕
 翌日、斬首・・・養子(小栗忠道)も高崎で斬首
 ↓↑
 文政十年(1827年
 旗本
 小栗忠高の子
 江戸駿河台で誕生
 幼名は剛太郎
 ↓↑
 八歳
 小栗家屋敷内の
 安積艮斎の私塾
 「見山楼」入門
 「栗本鋤雲」
 と知り合う
 剣術を
 「島田虎之助」
 に師事
 「藤川整斎」
 の門下となり
 直心影流免許皆伝
 砲術を
 「田付主計」
 柔術と山鹿流兵学(19歳~4年間)
 「窪田助太郎清音(講武所頭取)」
 に師事
 天保十一年(1840年)頃
 「田付主計」の同門の
 「結城啓之助」
 から開国論を聞かされる
 ↓↑
 天保十四年(1843年)
 十七歳で登城
 嘉永二年(1849年)
 林田藩の前藩主
 「建部政醇」の娘
 「道子」と結婚
 ↓↑
 嘉永六年(1853年)
 アメリカ合衆国
 東インド隊司令長官
 「マシュー・ペリー
 が浦賀来航
 異国船に対処する
 詰警備役
 外国との積極的通商を主張
 造船所建築構想
 ↓↑
 安政二年(1855年
 父が医師の誤診により死去
 家督を相続
 安政六年
 「小栗豊後守」を名乗る
 ↓↑
 安政七年(1860年
 遣米使節目付(監察)
 正使の
 「新見正興」が乗船する
 ポーハタン号
 (Powhatan)
 17世紀初め頃
 バージニア海岸地域を占めた30ほどの
 「アルゴンキン語」系の
 アメリカインディアンの連合
 1607年
 ジェームズタウン
 植民地が建設される少し前
 大族長
 「ワフンソナクック
  (当時の植民者はポーハタンで知られていた)」
  によって 200ほどの村から成る
 インデアン連合の形成領域
 南北戦争時の米国海軍の外輪フリゲート
 名前はアメリカ・インディアンの
 「ポウハタン酋長」に由来・・・
 法 破綻・・・尊重・・・?
 ↓↑
 で渡米
 2ヶ月後
 サンフランシスコに到着
 目付の小栗が代表と勘違いされ
 行く先々で取材を受けた
 小栗は詰警備役として
 外国人と交渉経験があったので
 その対応が代表に見えた・・・
 「目付=スパイ」
 の嫌疑を受け
 「目付=Censor(ケンソル)」
 と主張し
 「Censor=検閲官・監査官・監察官」
 の役目が代表扱いされた・・・
 ↓↑
 フィラデルフィア
 「通貨の交換比率の見直し」の交渉
 「日米修好通商条約
 で定められた
 「交換比率が不適当で不公平」だった
 小栗は
 小判と金貨の分析をもと
 正しさを証明したが
 比率の改定までは至らなかった
 この交渉に
 アメリカの新聞は絶賛の記事を掲載
 小栗は
 ワシントン海軍工廠を見学し
 製鉄、金属加工技術
 などの差に驚愕し
 記念にネジを持ち帰った
 ↓↑
 後
 ナイアガラ号
 に乗り換え
 大西洋を越えて品川に帰着
 帰国
 外国奉行に就任
 ↓↑
 文久元年(1861年
 ロシア軍艦
 対馬占領事件
 幕府老中に
 対馬を直轄領とすること
 事件の折衝は
 正式な外交形式で行うこと
 國際世論に訴え
 英国海軍の協力を得ること
 など提言したが
 容れられず
 外国奉行辞任
 ↓↑
 文久二年(1862年
 勘定奉行に就任
 「小栗豊後守」から
 「上野介」に変更
 幕府の財政立て直しを指揮
 幕府は海軍力強化で
 「44隻の艦船」を諸外国から購入
 総額は
 「333万6千ドル」
 小栗は
 駐日フランス公使
 「レオン・ロッシュ」
 の通訳
 「メルメ・カション」
 と親しかった旧知の
 「栗本鋤雲」を通じ
 ロッシュとの繋がりを作り
 製鉄所についての提案を練り上げ
 アメリカは
 「南北戦争」で国が疲弊しており
 フランス中心の招聘となった
 ↓↑
 文久三年(1863年
 製鉄所建設案を幕府に提出
 十四代将軍
 「徳川家茂」は承認
 十一月二十六日
 実地検分が始まり
 建設予定地
 横須賀に決定
 上野国
 甘楽郡
 中小坂村に
 (群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)
 「鉄山採掘」施設の建設計画
 「武田斐三郎」
 などを現地の見分に派遣
 見分結果
 「鉄鉱石の埋蔵量は莫大」で
 成分分析の結果
 鉄鉱石の鉄分は極めて良好と判明
 近隣での
 石炭供給が不十分で
 しばらくの間
 木炭を使った高炉を建設すべしとの報告
 ↓↑
 慶応元年(1865年)
 高炉用木炭を確保するため
 御用林の立木の使用について
 陸軍奉行と協議
 ↓↑
 慶応元年(1865年)
 十一月十五日
 横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠
 建設開始
 費用は4年継続で
 総額240万ドル
 万延二分金などの
 貨幣の増鋳の
 貨幣発行益で
 建設費用を賄っていた
 横須賀製鉄所の建設で
 費用の負担から
 幕府内部の反対論もあったが
 工作機械類が
 フランスに発注済で
 最終的に製鉄所は建設
 ↓↑
 小栗は
 横須賀製鉄所の首長として
 フランスの
 「レオンス・ヴェルニー」を任命
 幕府公認の事業では初の事例
 この人事により
 職務分掌・雇用規則・残業手当
 社内教育・洋式簿記・月給制
 など
 経営学
 人事労務管理
 の基礎が日本に導入
 日本初の
 フランス語学校
 横浜仏蘭西語伝習所を設立
 フランス人講師
 を招いて本格的な授業
 卒業した人物は
 明治政府の官僚職を担った
 ↓↑
 小栗は
 陸軍の力も増強するため
 小銃・大砲・弾薬等の
 兵器・装備品の国産化を推進
 ↓↑
 文久二年(1862年)十二月
 銃砲製造の責任者に任ぜられ
 韮山代官
 「江川英武」
 に任されていた
 「湯島大小砲鋳立場」
 を幕府直轄とし
 「関口製造所」に統合
 取り仕切ってきた
 江川の手代の代わりに
 「武田斐三郎」
 「友平栄」
 などの技術者を
 「関口製造所」
 の責任者として新たに登用
 ベルギーから
 「弾薬火薬製造機械」を購入
 「滝野川反射炉
 の一角に設置
 西洋式火薬工場を建設
 ↓↑
 小栗は
 幕府陸軍
 フランス軍人に指導させる計画
 慶応二年十二月八日
 (1867年1月12日)
 フランス軍事顧問団到着
 翌日から訓練開始
 同時に
 フランスに
 大砲90門
 シャスポー銃10,000丁を含む
 後装小銃25,000丁
 陸軍将兵用の
 軍服27,000人分
 等の大量の兵器・装備品を発注
 購入金額は
 総計72万ドル

 慶応二年(1866年)
 関税率改訂交渉に尽力
 フランスとの経済関係を緊密にし
 「三都商人(江戸・大坂・京都)」
 と結んで
 日本全国の
 商品流通を掌握しようと計画
 慶応三年(1867年)
 株式会社
 「兵庫商社」
 の設立案を提出
 大阪の有力商人から
 100万両という資金出資を受け設立
 日本商人が
 海外貿易で不利益を被っており
 大資本の商社が必要との認識
 八月九日
 日本初の本格的ホテル
 築地ホテル館の建設開始
 「清水喜助」らが建設
 翌年八月十日に完成
 ↓↑
 大政奉還
 慶応三年十月十四日
 (1867年11月9日)
 十五代将軍
 「徳川慶喜
 が朝廷に大政奉還
 翌慶応四年(1868年)一月
 鳥羽・伏見の戦い
 戊辰戦争勃発
 ↓↑
 一月十二日
 江戸城評定で
 小栗は
 榎本武揚
 大鳥圭介
 水野忠徳
 らと徹底抗戦主張
 「徳川慶喜
 はこの作戦を退け
 「勝海舟
 の恭順論を採った・・・
 ↓↑
  東善寺
 (群馬県
  高崎市
 慶応四年(1868年)一月十五日
 勝手掛老中
 「松平康英
 から呼出の切紙を渡され
 「芙蓉の間」で
 老中  酒井忠惇
 若年寄 稲葉重正
 から
 御役御免
 勤仕並寄合となる沙汰
 一月二十八日
 「上野国群馬郡権田村
 (群馬県
  高崎市
  倉渕町
  権田)
  への土着願書」
 を提出
 ↓↑
 旧知の
 三井家大番頭
 「三野村利左衛門」
 から千両箱を贈られ
 米国亡命を勧められが
 これを断った・・・
 二月末
 「渋沢成一郎
 から
 「彰義隊隊長」に推されたが
 拒絶
 三月初頭
 権田村
 「東善寺」
 に移住
 水路を整備
 開塾
 ↓↑
 慶応四年(1868年)閏四月四日
 小栗は
 東山道軍の
 軍監
 「豊永貫一郎」
 「原保太郎」
 に率いられた
 高崎藩・安中藩・吉井藩兵
 により
 東善寺で捕縛
 閏四月六日朝四ツ半(午前11時)
 「烏川」の・・・カラス川?
 水沼河原・・・・水の沼の河の原・・・推称加減
 (群馬県高崎市倉渕町水沼)
 で家臣の
 「荒川祐蔵」
 「大井磯十郎」
 「渡辺太三郎」
 と共に引き出され
 斬首
 享年42
 ↓↑
 遣米使節目付として
 渡米する直前
 従妹の
 鉞子(よきこ
    父・忠高の義弟
      日下数馬
      の娘)
 を養女にし
 許婚として
 「駒井朝温」の次男
 「忠道」を養子に迎えていた
 「忠道」も翌日に高崎で斬首
 母の「くに子」
 夫人の「道子」
 養女の「鉞子」
 を
 会津藩
 「横山常守」を頼り
 会津に向かって脱出
 「道子」は身重の体で
 善光寺参りに身を扮し
 急峻な山道である悪路越えの逃避行
 一行は新潟を経て
 閏四月二十九日
 会津に到着
 「松平容保
 の計らいにより夫人らは
 会津藩野戦病院に収容
 六月十日
 「道子」は女児を出産
 「国子」と命名・・・
 ↓↑
 明治二年(1869年)春まで
 会津に留まり
 東京へと戻った
 小栗の家族の世話をしたのは
 小栗家の奉公人
 「三野村利左衛門」
 三野村は日本橋浜町の別邸に
 小栗の家族を匿い
 明治十年(1877年)
 死去するまで
 小栗の家族の面倒を見続けた
 忠順の遺児
 「国子」が成人するまで
 「駒井朝温」の三男で
 「忠道」の弟
 「忠祥」が継いだ
 「三野村利左衛門」
 の没後も
 三野村家が母子の面倒を見ていたが
 明治十八年(1885年)
 「道子」が没すると
 「国子」
 は親族である
 「大隈重信
 に引き取られ
 大隈の勧めにより
 「矢野龍渓」の弟
 「貞雄」
 を婿に迎え
 小栗家を再興
 ↓↑
 名刀工
 「源 清麿」
 が窪田家の屋敷に住み込みで修業していた
 小栗の製鉄所建設の原点・・・
 ↓↑
 天保十四年(1843年)三月二十二日
  江戸城初登城・徳川家慶御目見
 弘化四年(1847年)四月十六日
  小栗忠高 嫡子の身分で
  西の丸書院番に登用
 嘉永六年(1853年)
  進物番出役・徳川家定に近侍
 嘉永七年(1854年
  外国船警戒の浜御殿の警備担当
 安政二年(1855年
  七月二十八日
  父、忠高が急死
  十月二十二日
  家督を相続
  「又一」を称する・・・又の一?
 安政四年(1857年)
  一月十一日
  書院番(九番組)
  大岡豊後守
  清謙組進物番出役から使番に異動
  十二月十六日
  布衣を許される
 安政六年(1859年)
  九月十二日
  使番から目付に異動
  翌日、日米修好通商条約批准
  のため使節として渡米を命じられる
  十一月二十一日
  従五位下豊後守叙任
 万延元年(1860年)十一月八日
  目付から外国奉行に異動
 文久元年(1861年
  4月
  ロシア軍艦
  対馬占領事件で
  対馬に出張
  5月10日
  対馬
  軍艦艦長
  「ビリレフ」
  と3度に渡り交渉
  7月26日
  外国奉行を辞し、寄合席
 文久二年(1862年
  3月9日
  小姓組番頭(二番組)
  6月5日
  小姓組番頭から
  勘定奉行・勝手方に異動
  閏8月4日
  松平出雲守の代理として
  朝鮮人 来聘御用を拝命
  閏8月25日
  勘定奉行から江戸南町奉行に異動
  閏8月27日
  勘定奉行を兼帯
  12月1日
  南町奉行から歩兵奉行に異動
  勘定奉行・勝手方を兼帯
  12月10日
  講武所御用取扱兼帯
 文久三年(1863年
  4月23日
  勘定奉行・勝手方
  歩兵奉行
  講武所御用取扱を辞し、寄合席
  7月10日
  陸軍奉行並となる。
  7月29日
  陸軍奉行並を辞し、勤仕並寄合
  勤仕並寄合の期間中
  豊後守から上野介に改名
 元治元年(1864年
  8月13日
  勘定奉行・勝手方
  12月18日
  軍艦奉行に異動
 元治二年(1865年)
  1月
  横須賀製鉄所御用掛に
  栗本瀬兵衛らと共に任ぜられる
  29日
  フランスと製鉄所建設の約定
  2月21日
  軍艦奉行を辞し、寄合席
  改元
  慶応元年五月四日
  勘定奉行・勝手方
 慶応二年(1866年)四月
  兵庫商社設立の建議書を幕府に提出
  関税税率改定交渉に参加
  6月5日
  兵庫商社を設立、役員を任命
  8月11日 - 海軍奉行並を兼帯
 慶応三年(1867年)五月
  武蔵国豊島郡滝野川村に
  火薬製造所を設立
  9月26日
  小栗主張の
  兵賦制度が布告
  組合銃隊が廃止
  12月28日
  陸軍奉行並を兼帯
 慶応四年(1868年)一月十五日
  陸軍奉行並
  勘定奉行を御役御免
  勤仕並寄合と就る
  1月28日
  知行地
  上野国群馬郡権田村への土着願
  寄合肝煎
  平岡道弘に提出
  翌29日、許可
ーーーーー
 ・・・???・・・
 ↓↑
 移転したボクの「HP」の(中途半端な)目次
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm

 ボクの動画・YouTube
http://www.youtube.com/user/merikiri

 「プラトン古事記をカタル」は少しづつ移転
http://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/tag/%E3%82%B3%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%81%AE%E6%96%87%E5%AD%97%E6%8E%A2%E7%B4%A2

 「プラトン古事記をカタル」+〈表紙・画像・音楽」
https://haa98940.wixsite.com/mysite

 本日の「干支歴」⇔移転したボクの「HP」に連係・連繋
http://meisiki.bake-neko.net/

 旧「HP」の移転住所
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm

 モウ君の総合目次(倉庫入り昔のぺ-ジです)では若干覗(覘)けるカモ・・・
http://web.archive.org/web/20090607215808/http://www1.odn.ne.jp:80/~haa98940/jyobun/jyobun.htm

 

新法の制定者 ・・・最終的な決定権威者で律令自体の超越者・・・凋落?

 3062日目・文字霊日記
 シンレイ現象・・・浸礼(禮)・深冷・辰伶・振鈴・心霊・深令・・・
 浸礼(シンレイ)=バプテスマの訳語
          全身を水に浸して罪を洗い清める儀式・・・?
          shower(シャワー)をアビル・・・
          汗カキは罪らしい・・・汗臭い
          汗=sweat (スウェット)=北方民族の頭領
          鮮卑の王=可汗
          柔然の王=可汗
          東突厥が唐に従属し
          北方遊牧諸民族は
          唐の太宗に「天可汗」の称号を貰った
          成吉思汗(ジンギスカン)
          忽必烈汗(フビライカン・クビライハン)
          忽必烈可汗
          は「重財・柔財」かも・・・拾財・重罪?
 深冷処理・・・・焼き入れした合金鋼を常温以下に急冷すること
 深冷分離・・・・空気中の酸素・窒素・アルゴンの沸点の違いを利用し
         分離する方法

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 心霊現象
  ↓↑
 「福来友吉」博士
         1949年9月(79歳) 丁卯正官
  己┏巳(戊庚丙)印綬・偏官長生⇔壬辰食神
   冲
 ┏乙┗亥(戊甲壬)正財・食神 病⇔癸卯傷官
 ┗庚 午(丙 丁)  ・正官沐浴⇔戊午偏印
  壬 午(丙 丁)食神・正官沐浴⇔戊午偏印
    戌亥空亡
ーーーーー
 律令制
 中国
 「土地と人民は王の支配に服属する」
 律令制
 氏族制
 の二元国家体制・・・
 ↓↑
 皇帝
 新法の制定者
 最終的な決定権威者で律令自体の超越者
 名例律18条
 「非常の際には律令に従わず裁断できる」
 ↓↑
 日本の
 養老律令・名例律
 考課令官人 犯罪条 同規定
 実際は天皇律令に拘束される
 ↓↑
 神亀元年(724年)二月
 聖武天皇即位2日後
 生母の
 「藤原宮子」に
 「大夫人」の称号を与えたが
 太政官左大臣
 「長屋王」に律令違反と抗議奏
 勅を撤回
 日本での律令運用の中心が
 太政官議政官にあった・・・

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 ↓↑
 唐令の皇帝土地支配を改め
 土俗的で伝統的な
 氏族制の地方支配を認め
 地方国造からの
 朝廷・大王への
 宗教的な祭祀による捧げもの貢納を
 国家による地方支配の根幹
 中国の租庸調とは性格が異なる
 地方行政機関の
 評制定と
 民衆把握の
 戸籍を作り
 「班田収授法」で
 農地を調べ
 徴税
 労役を課すことが
 日本の「律令制
 ↓↑
 唐王朝周辺で
 日本だけが
 律令
 唐制の体系的法典を倣って
 編纂・施行
 ↓↑
 「律令体制・律令国家」
 の呼称は日本のみ
 中国の「律令」という言辞は
 秦~明まで使用され
 内容や位置づけは変遷し
 清は「律」のみ運用
 ↓↑
 基本制度
 日本
 一律的に耕作地を班給する土地制度
 班田収授制(班田制)として施行
 ↓↑
 租庸調制の施行
 人民は
 耕作地班給の代償として
 納税義務
 地方氏族制による
 律令制以前の
 「チカラ・ミツキ・タチカラ」
 の慣行の上に成立
 ↓↑
 人民把握の地方行政制度
 伝統的な氏族制を認めて整備
 郡(評)里制を採用
 国の支配の基礎は郡司
 地方豪族の民衆支配
 天皇・朝廷の
 民衆支配は二次的
 任命されたこの制度の下で
 班給・課税・徴兵などの
 台帳
 戸籍
 計帳
 の作成
 ↓↑
 官僚制、国制組織
 官位の
 位階
 秩序として天皇との距離優先
 中国
 官職が位を持ち重視
 中国に倣い蔭位の制
 太政官議政官
 の合議で上奏形式で
 天皇の権力を抑え
 国家権力5位以上の
 畿内貴族層で掌握し
 地方豪族を支配
 ↓↑
 兵役
 軍団制として施行
 耕作地班給の代償として
 兵役の義務
 東国(関東)ばかりが
 防人の兵役義務を負っていた
 ↓↑
 律令法典
 律=刑法
 令=行政法
 格=律令不足を補う改正法
 式=律令と格の施行細則
 ↓↑
 交通制度(駅伝制)
 ↓↑
 日本の律令制
 7世紀後期(飛鳥時代後期)
 ~
 10世紀頃まで実施され
 8世紀初頭
 ~
 同中期・後期頃
 ↓↑
 『日本書紀
 推古十一年十二月五日
 (604年1月11日)
 冠位十二階制定
 官に十二等
 と『隋書』倭国伝に記録
 身分秩序を再編成
 ↓↑
 646年
 孝徳天皇
 中大兄皇子
 らの政治改革
 「大化の改新
 豪族らの私有地廃止
 人民の所有を廃止
 統一的な地方統治制度
 戸籍・計帳・班田収授法
 1967年12月
 藤原京の北面外濠から
 「己亥年十月上捄国阿波評松里□」
 (己亥年=699年)
 と書かれた木簡が発掘
 改新の詔の文章は
 『日本書紀』編纂に際し書き替えられた
 大化の改新の諸政策は後世の潤色
 公地公民制
 改新時に制度は構築されなかった・・・
 ↓↑
 律令制導入
 660年代からで
 660年
 百済滅亡
 663年
 百済復興戦争(白村江の戦い)敗北
 唐・新羅との対立関係で
 国防力の増強
 挙国的国制改革
 大王(天皇)権力の集中
 ↓↑
 近江令
 国制改革の個別法令群の総称
 天智天皇による法令
 官位26階制
 民部家部
 天智九年(670年)
 最初の戸籍
 「庚午年籍」作成
 部姓や氏がつけられ
 律令制の基礎ともなった
 ↓↑
 飛鳥浄御原令
 「壬申の乱」後
 天武天皇
 軍事最優先項目
 専制的な政治推進
 官僚たちの
 登用・考課・選叙
 など官人統制の法令整備
 681年
 律令制定の詔
 689年
 持統天皇
 令が完成・施行
 飛鳥浄御原令
 律令制の本格施行ではなく
 先駆的に施行
 令原文が現存していない
 戸籍=6年に1回作成(六年一造)
 五十戸=一里
 班田収授に関する規定
 ↓↑
 浄御原令
 官制は
 南北朝時代
 隋の制度
 百済新羅
 などの朝鮮半島の制度が織り交ぜられた
 律=「飛鳥浄御原律」が制定されなかった
 隋律、唐律が
 日本に伝来された可能性は低く
 日本で律の編纂
 唐からの
 律法典が招来
 それを理解できる
 唐留学生の帰国や唐人の来日
 ↓↑
 大宝律令
 701年
 最初の本格的律令法典
 律令制確立
 645年
 難波宮での
 「大化の改新」時
 国号
 日本
 元号
 大化
 が定められた
 ↓↑
 藤原京
 制定過程で
 周礼に準じた
 正方形の
 宮域の形式が
 長方形の
 長安を見聞の遣唐使により
 相違すると指摘され
 平城京
 九年間をかけ建設遷都
 「藤原不比等
 大納言・右大臣へ昇進
 平城京遷都に貢献
 中枢で権力を握った
 正史
 「日本書紀」の編纂
 「風土記」の撰上
 「度量衡」の制定
 「銭貨」の鋳造
 ↓↑
 大宝律令
 唐の
 「永徽律令(651年制定)」
 をもとに
 日本の国情に適合させ撰修
 757年
 養老律令として施行
 ↓↑
 桓武天皇
 律令制の終焉
 8世紀末頃
 桓武天皇
 実効性のない制度を廃止
 実効的な制度に置換
 長岡京平安京への遷都
 対蝦夷戦争
 律令制の再編成
 軍団の廃止
 治安を悪化させた・・・

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 ↓↑
 格・式
 9世紀
 前期~中期
 律令制の再整備
 律令修正法である
 「格(キャク)」
 律令格施行細則である
 「式(シキ)」
 大宝律令の施行以後
 820年
 集成した
 「弘仁格式」が編纂
 830年
 「天長格式」が撰修
 834年
 令の官製逐条解説
 『令義解(リヨウのギゲ)』
 が施行
 律令制の実質維持を目論んだが
 班田制は崩壊
 870年前後
 「貞観格式」が編纂・頒布
 868年
 律令条文の多様な解釈を集成した
 私的律令解説本の
 『令集解
 が
 「惟宗直本」により記録
 ↓↑
 10世紀
 「延喜式」編纂
 律令国家~請負統治
 王朝国家(前期王朝国家)へ転換
 11世紀以降
 律令の一部の条文は効力を保持
 「後醍醐天皇
 「建武の新政
 律令制の根幹を成す
 「王土王民思想」
 「一君万民思想」
 「封建的君主制
 とは相容れず混乱
 ↓↑
 太政官制
 1885年(明治十八年)
 廃止されるまで続いた
 ↓↑
 養老律令
 儀制令
 天皇を君主号として
 天子、皇帝に並べて規定
 天皇が発する命令や手続き
 律令に規定
 天皇の行為は
 律令の制約
 天皇
 三省六部に相当する
 諸機関(二官八省
 を直接統括しておらず
 太政官が間に入り
 太政官によって権限が制約
 ↓↑
 皇位を生前譲位した者は
 「太上天皇上皇)」と規定
 中国律令にない独自の地位
 律令
 「太上天皇」を
 天皇と同等の地位と解釈
 「聖武太上天皇」は
 実質的に
 「孝謙天皇」よりも上位者
 平安後期の院政も同様
 ↓↑
 律令統治機構
 神祇官=祭祀
 太政官=行政
 ↓↑
 中国律令
 祭祀所管庁は
 通常の官庁と同列
 ↓↑
 日本律令
 神祇官
 祭祀と政務を明確に分離
 太政官の下に
 行政八省
 各省の下に個々の事務を分掌する
 職・寮・司・所
 などの諸官庁が置かれ
 総称して
 「二官八省
 ↓↑
 太政官
 国政の意思決定を行う機関
 太政大臣左大臣・右大臣
 大納言(後に中納言・参議)
 議政官組織
 実務面で補佐する
 少納言・左右弁官局外記局
 から構成
 ↓↑
 議政官
 政務の重要な案件を審議
 裁可は天皇が行う
 重要でない案件は
 議政官の審議のみ
 国政の意思決定を左右する組織
 天皇が裁可
 議政官が審議して決裁された案件は
 弁官に回付
 弁官が
 太政官符を作成、実行
 国政中枢の実務を担っていた
 天皇が案件を提起する場合は
 天皇から
 中務省へ命じて詔書が作成
 中務省が起案した詔書の文案は
 外記局で点検
 天皇
 弁官へ回付
 決裁された政策実行は
 八省の
 左弁官
 右弁官
 が四省ずつ担当
 ↓↑
 太政官
 組織形態
 唐律令では
 国政の意思決定機構は
 天子の命を受け
 政策を企画立案する
 中書省
 中書の立案を審議する
 門下省
 門下省が同意した政策を実行の
 「尚書省」から構成
 ↓↑
 中書省は天子とのつながり
 門下省は貴族層の意思を代表
 中書と門下の力が拮抗
 ↓↑
 地方統治
 五畿七道
 ↓↑
 五畿
 大和国山城国河内国
 和泉国摂津国
 ↓↑
 その他
 七道に区分
 行政単位
 国・郡・里(郷)の三層
 国には国司
 郡には郡司
 里には里長(郷長)
 ↓↑
 国司は中央から派遣
 郡司・里長は
 在地首長の
 豪族層が終身官として任命され
 支配地域の行政を認められていた
 人民支配と
 在地首長による
 氏族制での
 人民支配・・・
 ↓↑
 京域を管轄する
 「左右京職
 首都の外交窓口
 難波を管轄する
 「摂津職」
 国家の外交窓口
 西海道を管轄する
 「大宰府
 ↓↑
 駅伝制
 中央と地方の情報伝達
 駅伝制の下で
 中央と国内各地を結ぶ
 道路網が整備
 ↓↑
 統治機構に属する官僚
 官位相当制
 官職と位階
 官職=官庁における役職
    役職が四階級
    長官(かみ)・次官(すけ)
    判官(じょう)・主典(さかん)
    四等官
 位階=官僚の序列等級
    弁官局の次官
    左右中弁は正五位上
    正五位上の者の中から
    左右中弁が選任されていた
    位階五位以上の者は
    位田・位封・位禄
    位分資人(使用人)が給与
    特別の身分階層を形成し
    これを「貴族」という。
 ↓↑
 人民統治
 律令制
 人民統治の基盤
 戸籍(世帯=戸ごとに
       人民を詳細に記載登録)
 計帳(調・庸の税を徴収台帳)
 が毎年更新、作成
 ↓↑
 班田収授制
 戸籍を基にして
 一定の資格を持つ者に対し
 一律に同じ面積の田を
 口分田として班給
 その者が死ねば
 口分田を収公
 口分田は
 公地ではなく
 私地と規定・・・
 口分田の他の田には
 五位以上の者へ班給された位田
 天皇から特別に与えられた賜田
 特に功績を残した者に与えられた功田
 官職に応じて班給された職田
 仏教寺院の維持運営にあてられた寺田
 神社の維持運営にあてられた神田
 以上の班給の残りの乗田
 宅地と園地も班給の対象とされたが
 収公はされず
 自由に売買できた
 ↓↑
 税制・租庸調
 田地の班給を受けた者は
 原則として
 田租を納税する義務を負ったが
 中には納付義務が免除される田地もあった
 田租の賦課対象となる田地を
 輸租田といい
 田租が免除された田地を不輸租田という
 口分田・位田・賜田・功田
 郡司への職田が輸租田とされ
 郡司以外の
 職田・寺田・神田のみが不輸租とされた
 ↓↑
 租
 割り当てられた口分田の収穫量のうち
 3%を稲束で納めた
 国衙の正倉に蓄えられ
 地方行政の財源となった
 出挙=貸借制度
 国司や郡司は
 田租の稲を
 強制的に百姓へ貸し付け
 利子の稲を得ていた
 公出挙=正税と呼ばれ
 地方の貴重な財源となった
 ↓↑
 百姓
 田租以外にも
 調・庸
 などを負担する義務
 ↓↑
 庸
 都での労役に従事すること
 代替として
 布、米、塩
 などを中央へ納付
 ↓↑
 調
 男性に賦課された物納税
 絹や布、塩、紙、染料、海草、油
 などの地域の特産品が納められた
 調は中央の財源で
 直接、宮都に納付
 百姓の中から
 運搬する者(運脚)が選ばれ
 都まで運送
 ↓↑
 雑徭
 国司の命に従って
 国内の
 土木工事や政府機関での
 雑用に従事する労役義務
 中国では雑徭とは別に
 「差科」と呼ばれる労役義務がある
 労役に雇役と呼ばれるものもあった
 ↓↑
 仕丁
 一里(50戸)ごとに
 2人が3年間、都で働く税
 生活費は自己負担
 調、庸、雑徭は免除
 ↓↑
 兵役
 百姓は兵役の義務
 軍事制度=軍団制
 成年男性の中から徴兵
 3~4郡ごとに置かれた軍団に
 兵士として配属
 訓練を受けた兵士は
 中央の畿内へ配転され
 衛士として1年間
 王城周辺の警備に当たった
 関東の兵士は
 北九州に防人として
 3年間配属
 沿岸防備などに従事
 ↓↑
 身分制度
 律令制の身分
 良民
 賤民
 良民=高級官僚の貴族
    下級官人
    一般百姓(公民)
    雑色人(品部・雑戸)
    工芸技術を持つ半自由民
 賤民=五色の賤
    陵戸
   (天皇・皇族の陵墓を代々守る家系)
    官戸
   (諸官庁に属し公用に従事)
    公奴婢
   (官有の奴隷)
    家人
   (貴族や有力者に属し雑用に従事)
    私奴婢(私有奴隷)
 ↓↑
 公奴婢
 私奴婢
 は売買対象で
 奴隷
 ↓↑
 宇多天皇
 菅原道真
 vs
 藤原時平
 ↓↑
 道真は
 宇多天皇からの遣唐使要請を拒否
 894年
 遣唐使廃止
 907年
 唐滅亡
 ↓↑
 901年
 道真は藤原時平の陰謀で
 醍醐天皇への
 謀反の濡れ衣を着せられ
 太宰府へ左遷(昌泰の変)
 903年に死没
 930年あたりまで
 道長の怨霊祟りが続く
 ↓↑
 朱雀天皇
 関東での「平将門の乱
 瀬戸内海での「藤原純友の乱
 (承平天慶の乱
 ↓↑
 「承久の乱」・・・武士の封建制移行
 「建武の新政(中興)」・・・律令制崩壊
 ↓↑
 by  「Wikipedia
ー↓↑ーーーー
 中国各王朝の律令
 律令制体制
 秦・漢
 単行の法令
 まとまった法典の形式は取っていなかった
 西晋~唐
 唐と同様の
 体系的律令法典を編纂・施行は
 日本だけ
 律令を制定者は中国皇帝だけ
 中国から冊封を受けた国は許されないこと
 律令制
 魏晋南北朝時代
 に出現、徐々に形成
 後漢末期~戦乱の時代
 社会再建のため
 魏に続く諸王朝は
 「王土王民の理念」
 による統治を指向
 「均田制=土地制度」で
 「王土王民思想」を反映
 王が自らの支配する土地を
 自らが支配する人民(百姓)へ
 中間支配者である豪族を介さず
 直接班給
 中国では
 土地の班給よりも
 租税の確保を重視
 ↓↑
 個人を課税対象とする
 体系的租税制度
 「租庸調制」として施行
 農民は耕作地班給の代償として
    納税義務を負った
 土地の班給が
 農民一人一人に対して行われたので
 課税も個人に対してなされた
 律令国家による
 人民支配が徹底していた・・・
 課税は恣意性の介入を排除し
 誰に対しても一律に行われた
 ↓↑
 軍事制度
 一律的に兵役義務
 府兵制として施行
 耕作地班給の代償として
 兵役の義務
 唐代の
 江南地方では兵役がほぼ免除
 必ずしも一律的ではなかった・・・
 ↓↑
 人民把握の地方行政制度
 郷里制の採用
 末端の近くまで
 官僚が体系的に配置
 この制度の下で
 班給・課税・徴兵の台帳となる
 戸籍・計帳の作成
 ↓↑
 魏
 耕作者がいなくなった田地を
 人民に支給し
 軍糧を徴収する
 屯田
 と
 兵役義務
 を持つのは兵戸で
 他の一般戸と区別する
 兵戸制を採用
 税制は
 土地面積ごとに
 一定額の田租を賦課する「定額田租」
 戸ごとに物納を課する「戸調」
 を行っていた
 その後の諸王朝も継承し
 律令制の基礎を形成
 明帝の時代
 「魏新律」編纂
 律の法典化が実施された
 令に関しては
 州郡令・尚書郡令・軍中令
 に分かれ法典としては不完全
 ↓↑
 西晋
 土地制度は
 占田・課田制
 兵制・税制は
 前代の
 兵戸制・戸調制を継承
 268年
 「泰始律令」制定
 最初の律令法典・・・
 ↓↑
 北魏北朝
 五胡十六国時代
 ↓↑
 北朝最初の王朝
 北魏
 「三長制」
 地方行政制度を実施
 租税の徴収
 戸籍の作成を一律的に行った
 第六代皇帝
 孝文帝
 三長制の成果を前提とし
 均田制
 均賦制
 を実施
 一律に耕作地を支給し
 一律の基準で徴税を行う
 律令制の基礎形成が完了
 均賦制は夫婦に対して課税
 課税単位の中心が
 戸単位から夫婦単位へと移行
 ↓↑
 西魏
 兵戸制に代わって
 府兵制という
 兵農一致をの兵制
 ↓↑
 北周
 儒教教典
 「周礼」に基づいて
 三省六部の官制を整備
 「租庸調」の税制を開始
 律令制の形成は
 北朝を主舞台とし
 国力を増強し
 南朝を圧迫していった
 ↓↑
 隋
 589年
 約270年ぶりに中国統一
 581年
 隋の
 文帝は
 「開皇律令」を制定・施行
 律令制が完成
 「律」では
 残虐な刑罰が廃止
 内容簡素化
 官制
 三省六部
 御史台
 設置
 「科挙」を開始
 均田制は
 夫婦単位から
 男性個人単位(丁・中男)へと移行
 煬帝
 『大業律令』が頒布
 ↓↑
 唐
 隋国反乱者
 唐の初代皇帝
 高祖は
 『開皇律令』に基づいて
 『武徳律令』を頒布
 代々改正し
 玄宗
 開元二十五年(737年)
 『開元二十五年律令』頒布
 東アジア諸国でも踏襲
 律令の規定は
 現実社会とは乖離
 律令を補う「格式」が重視
 律令の本文は早くに散逸
 「李林甫」らによる
 注釈書
 『唐律疏義』が残り
 令については
 1933年
 「仁井田陞」が逸文を輯逸し
 『唐令拾遺』を著
 ↓↑
 8世紀中ごろ
 玄宗
 律令制が徐々に崩壊
 府兵制が機能しなくなり
 募兵を中心とする
 募兵制・節度使が導入
 均田制の根幹の
 農民百姓への耕作地の支給は
 実施されなくなり
 租庸調制が機能せず
 780年
 両税制へと移行
 758年
 塩と鉄の専売制を開始
 官僚制度も変容
 律令に規定のない
 「令外の官」が多数生まれた
 新興地主層による
 大土地所有
 官僚進出
 従来の統治制度
 律令制が機能不全、崩壊
 唐後期
 律令制はほぼ消滅
 律令
 宋においても編纂
 モンゴル系の
 元による中断を挟んで
 明でも行われたが
 時の皇帝の勅や
 新たに編纂された「会典」の影響で
 律令は縮小
 清では
 律のみが編纂
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 ・・・???・・・カンジ形象イガイに妄想手段なし・・・?